自宅のはPerformaなのでアップグレードが難しい。7.5.1なのでTCP/IPでなくてMacTCPで、設定を替えると再起動せねばならない。ダイアルアップのPPP接続が必要な自宅でこそOpenTransport(?)を使いたいのだが、世の中ままならぬものだ。《その後うまく出来ました。》
しかし、インストールし直すたびに「ことえり」が入ってくるのがうるさいと思う。私はWX3を使っている。dos/vでwx2,wx3を使っていたのの流れだ。ATOKはずっと第二水準の漢字に冷淡だったし、wx2は早くからハ行動詞に対応してくれたので選択したのであった。ちなみに98上では松茸で、未だにV2を使っている。ハ行動詞や二段動詞に対応させたり出来る文法改造のツールを作ってくれた人がいたのだが、松茸V3以上には対応してくれなかったからだ。MS-dosの5.0ではコマンドライン上で使うと決ってハングアップするのだが、手放せずにいる。
二段動詞への対応として個人的に出来ることとしては、「調ぶ:しらぶ」というのを一段動詞として登録してやることだ。でもこれには副作用がある。「得:う」というのを一段動詞に登録してしまっているので、「うられて」で「得られて」が出てしまうのだ。
今日も、中華料理ネタになってしまいました。
しかし、『日本歌謡集成』や『日本歌謡史』の電子化が出来ないものだろうか。
「神田川」の世界を〈四畳半フォーク〉と批判したのは荒井由美だったと記憶する。という部分。私も忘れていたのだが、松任谷由実『ルージュの伝言』(角川文庫1984.5.25)のp9に、
四畳半フォークって言葉、私が考え出したんだよ。(中略)それを富澤一誠とかが使い出して、そのうち浸透したわけ。(中略)四畳半フォークというのは、デビューしたてのころ『話の特集』に原稿頼まれて、そのとき最初に書いたんだ。とある。小林氏は『話の特集』ででも読んだのであろうか。荒井由実のデビューはおそらく1973年。
ただ、このような「私が作った言葉」ってのは、時々怪しいこともある。意識せずに覚えていた言葉を、自分が思いついたように思い込んでしまうこともあろうし、偶然の一致だってある。私自身の学生時代の経験で、ある人のあだなを思いついたのだが、自分の頭で考えるだけで一言も口にしたことはなかった。ところが、別の人がその人を私が考えていたあだなで呼んでいるのを聞いて大変驚いたことがあった。そのあだなは別に名前の一部にチャンをつけるなどという単純なものではないのである。
とはいえ、「私が作った言葉だ」という記録があれば、それは記録しておかねばならない。
《ことば会議室四畳半フォーク》
さて、「旧正月」という言い方はあるのに、「旧元日」「旧元旦」などという言い方はあまりしないように思う。ともあれ、「旧」は「新」があっての言い方である。明治六年から太陽暦が採用されたそうであるが、「新暦」という言い方はいまでも使うが、「新正月」などという言い方がこの頃あったのかもしれない。新暦の新春は新新春とか言ってたりして。
しかし、今の暦が旧暦と平均して一ヵ月程度ずれているために、新春が春でなくなってしまった。歳時記が春夏秋冬の四部に新年を加えて五部になったのは新暦の力によるものである。
それにしても新暦にしても、旧暦にしても一年のはじまりはどうやって設定したのだろう《あ、旧暦は立春と関連づけてるんだった》。そうそうイスラム暦も。
1997.2.7は旧の元日なので、それに因んで書きました。
ことばに恋い焦がれるという部分には目頭が熱くなる私であった。
以上は、形容詞終止形が形容動詞の語幹になったものだが、形容詞の語幹に「やか」を付けて形容動詞にすることもあるようだ。
さて、アルコール抜きの「ドライ」は、私の記憶にあるかたちでは見当らないが、『現代新語辞典』(昭和七年毎日年鑑附録)には、
アメリカで禁酒法の結果として酒をのまない状態(のむ方はウェット)△ドライ・ロー=禁酒法とある。これもドライ/ウェットであるのか。
さて本題であるが、この本によれば、鹿児島県大口市の大口郡山八幡神社の改修の際に出てきた板に、永禄2(1559)年8月11日の日付と「焼酎」の文字が見えるという。写真も載せている。『日本国語大辞典』には『日葡辞書』の用例が古例となっていてこれは1603年になる。50年ほど遡ることになる。
しかも「焼酒」でなく「焼酎」と書いてあることも興味深い。「焼酒」という書き方は中国にもあって、この事自体は坂口氏も書いているのだが、以下は私の観点を。
「焼」の音ショウは、歴史的仮名遣いというか字音仮名遣いではセウである。ところが焼酎は、『日葡辞書』でシャウに相当するローマ字で書かれているし(この時代はシャウとショウ・セウの間に音の区別が有った)、現代の方言を見てもショウ・セウでなく、シャウの系統の音になっている。
ここで思い出すのは、豆はトウであるのに豆腐はタウフと書かれ、寮はレウであるのにリヤウと書かれることがあるという事である。これらは恐らく中国語の新しい音の影響を受けているのであろうと思う。「焼」も現代中国語でシャオという感じであるし江戸時代の資料でもそうである。
「酒」も現代中国語を聞けばチウと聞える(江戸時代も同様)。鎌倉時代までは、日本語のチがtiであったのでシュ・シウと聞かれていたのだが、室町時代にはchiというような音になっていた為、室町時代の人も江戸時代の人と同様「酒」をチウと聞いたと思われる。つまり「焼酒」をシャウチウと聞くことになるのである。
こう考えてくると、永禄年間に「焼酎」とあるということは、もっと以前に「焼酒」があったと考えるか、あるいは中国語で「焼酒」と書きシャウチウと聞えたものを、チウの音に引かれて「焼酎」と書いてしまったと考えるか。しかし「酎」などという字、そんなに見る字ではないが、酒好きの人には焼酎を知る以前から馴染みぶかいものだったのだろうか。
鉄道の貨物には、しばしば「天地無用」と書いてある。天地というのは上下のことで、この荷 物には上下がない。さかさまにしても苦しくないということだと、私は理解する。私ばかりでな く、並の人ならそう理解する。ところが鉄道は、その反対だという。この荷物は天地をさささま にすること無用、さかさまにしてはいけないことだという。私もこの「天地無用」について、文字だけを見た段階では、〈ひっくりかえしてもよい〉という意味だと思っていた。ところがそうでないということをどこかで読み、大いに驚き、しかし説明を読んで一応納得したものであった。どの本で読んだのか記憶にないので引用することは出来ないが、「ご意見無用」を例にして説明していたと思う。〈御意見はしてくれるな〉ということだから、〈ひっくりかえしてくれるな〉という意味になるのだという説明であった。
けれどもご意見無用というのは、意見ならしてくれるな、いらないということである。心配無 用というのも心配はいらないということである。それなら天地無用は、天地はいらない、さかさ まにしてもいいと読むのが自然ではなかろうか。
「犬棒」はたしかマイナスが先だった。
同じ番組の中で、伊奈かっぺい氏が言っていたことについてもコメントしたい気もしますが(ガ行鼻濁音のことを「半濁音とも」と言ってたのはどこで仕入れたのだろうと興味深い)、長くなりそうなので。
二月十五日 きょうは、ぼくのたん じょうびです。 スケートじょうにいきま した。まんなかをすべれ るようになりました。 はやく大きいところを、 すべりたいなあ。 かえりにケーキをかいま した。入学直前の頃である。ちょうど現在の長女と年齢が重なる。娘にも日記を付けさせようと思うのだが、書かせるのも結構大変である。
へそ曲りという言葉は昭和初年までなかった。それは字引を見ると分る。いま私の手もと にある大正十四年初版昭和六年八十版の「広辞林」(金沢庄三郎)には、つむじ曲りだけあって へそ曲りはない。私の記憶ではこの言葉は昭和十年代に言いだされ。あっというまに普及して……さらに、
明治大正年間の古字引を一式そろえれば、明治以来ので《き》星の言葉を枚挙することができる。と言っているが、そうは問屋がおろさない。「我が国の字引は、新しい言葉ができると、いち早く採用する」と山本氏はいうが、辞書はそんなにフットワークのよいものではない。「広辞林」は確かに小回りのきく方で、私も各版を揃えたくて、安ければ、また荷物が多くなければ、という条件がそろえば買っているが、まだまだだ。一般的な明治大正年間の辞書はそんなに新語を採用していないはずである。さらには、当然辞書に入っているべき言葉で、まだ未登録なものもあったようだ。
「へそ曲り」は新しそうだが、「へそを曲げる」という表現は、そんなに新しくないのかもしれず、方言辞典などに載っているようである。『日本国語大辞典』によれば、一番古いのは1903の『河内郡方言集』(栃木県)である。現代の新方言と同様、関東近隣のことばを東京が取り入れたものかもしれない。
《ことば会議室にあったが消えてしまいました。》
いたく錆びしピストル出でぬ石川啄木の歌はピストルが出てくる訳だが、石原裕次郎の場合はジャックナイフが出てくる。「いたく錆びし」が「真っ赤に錆びた」になっている。でも他は同じだ。
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
イネ 一等寝台車というような鉄道関係の、略語というよりは略表記も有るし、
ツニ 電報受信通知(電報)というような電略(電信略号)も、「ウナ」だけでなく載っている。なお「電電」というのは「満洲電信電話株式会社」の略だとのことである。
「灰」をハイと読むのは訓読みなのだが、音の様に振舞うことが多い。ここらあたりにも書いたはずだ。ただ、ここで「降灰」をコウバイと読むようだと書いているが、鹿児島の人にきくとコウハイと読むことが多いらしい。
二番の「もとおれば」(もとほる)は、つい「本居」(もとをり)を思い出してしまうが、関係ない。
餃子の王将(京都に生れ大阪に育つ)ではエンザーキーと言っていませんでしたっけ。エンは軟、ザーは炸、キーは鶏、だと思います。中華料理の呼びかたはいろんな地方の音が入り込んでいるために雑然としているのですが、軟がエンになるのは福州の方の音でしょうか。日本語でニネジゼとなる(北京音のpinyinでrで書かれるもの)が、消えてしまうのは福州音の特徴だと言われています(朝鮮漢字音でも消えますが)。
ともあれ「炸鶏」という語は中国語の辞典にも載っていて、意味は「揚げた鶏」です。
ですからザンギは炸鶏ザーキーから来たものかもしれない、という気がします。しかし断定は出来ません。ザーがザンに変化するにはそれなりの理由が有りそうですし。
北海道方言関係のwebでは、ここや、ここや、ここや、ここに立項されています。
また、北海道の食べものいろいろ(ほっかいどガイド)には、
「鳥をザンギリにしてからあげしたもの」「ロシア語からきた」 「ザン(揚げる)、ジー(鳥)がなまった (北大の側の、中華食堂が発祥の地?)」と諸説あるとありますが、「ジー鶏が訛った」ということではなく、ジーは北京音的、キーは南方音的、という感じだと思います。ザンで揚げるというような言葉は思い当らないのですが、「炸zha」以外になにかありますでしょうか。
まず、現代語のンに当るものが、平安時代ごろにはムとンの2つが有ったということがある。これは元になった中国語にも-mと-nがあったわけで、現代中国語でも南方ではこれを区別している地方は有るし、朝鮮漢字音においては厳密に区別されている。「源」は-nの方である。源氏物語のA.D.1000頃にも-nと-mが混乱しているものも有るが、紫式部は漢字にうるさい人だったとすれば、-nである「源」をムと表記することはなかったと考えられる。(しかし、実は漢字に対しては大した知識は無かったのだ、とすればムで表記することもあったかもしれない。)
次はもっと重要なことになるが、「源」の音からンを取除いた部分、これをケと書くが、これも平安時代にはクヱと書かれていたものである。これはかなり遅くまでこのように書かれていたようである。つまりkweというような音なのであるが、これはkeであるケと区別して、クヱもしくは「花」など漢字で宛字をして書いたりもしたようである。「源」はグヱン(或は「花ン」)であって(中国語でもyanじゃなくてyuan)、ケンと書かれることは無かったものと思われる。このクヱの音は鎌倉時代ごろにも残っていた模様である。
で、「源氏」を「けむし」と書いたことはまずなかろう、ということです。
ついでにいいますと、『源氏物語大成』というシリーズが有って、いろいろな写本を対照してあるのですけれども、ある写本で漢字となっていて別の写本で仮名書きになっている場合、これが同じ語であろうと推測されれば注記しないという方針なのですよね、これが。文学研究にはそれでよいのでしょうが、語学的研究ではちょっと不安です。語学の中でも表記・音韻に関わることには使えない訳です。新大成の出現を待ちたいところであります。といっても源氏を専門に扱う人よりも、源氏も扱いたい、という人が欲しがる訳だから、一体誰がやるべきなんでしょう。
まず、室町京之介『香具師口上集』『続香具師口上集』(創拓社1982.11.30,1984.11.15)というのが有って、なかなか面白いのであるが、それはさておき、これにも「香具師」の由来は書いてある。そんなに詳しいものではない。
あと、いろいろ書こうかと思ったけど、私が面白いと思ったものだけ書きます。
『新聞集成明治編年史1』のp478、明治5年7月のところ、『新聞雑誌』という雑誌(ニュースマガジンという感じなのだろう)からの摘出に、
七月上旬の御布令に、従来香具師と唱ヘ来候名目自今被廃止候事。というのがあった。つまり、「香具師」の商売は構わないが、名前を使うな、というのである。何故だか知らないが面白い。この時点で「こうぐし」といっていたのか、はたまた「やし」とはいっていたのだが、「香具師」と書くのが普通であったそれを禁止したのか。いずれにせよ、この名前は使うな、というのは、何か差別のことに関連するのであろうか。
但銘々商売の儀は可爲勝手事。(原文は片仮名)
時代は下るが、『新聞集成明治編年史3』のp296、明治十年九月のところには、『朝野新聞』の9.18から、岩手県庁が「蒙昧」「玩愚」「蠢愚」等の、
人民を度外に遇し又は軽忽に処する語気殆ど習慣の姿となれりなので、
字面語彙に至る迄再思を加へ調理可致と達した、という記事が出ている。
やき芋を懐炉の代理 やす書生の「代理」などは新しい言葉であったことであろう。「月給」「廣告」「原稿」などなど。「編輯者」は『日本国語大辞典』の例(漱石)よりも古い。
土曜日の夜は安心の大地震という具合。
区役所は感冒(かぜ)の下地と下女が云「はくしょん」「はくしょ」の用例は少ないのではないかという気もするが。
忘年会下女は法事と思って居なぜ法事と思うのであろうか。「忘年」は「年忘れ」を漢語にしたものであろうか。「忘年」には〈年齢差を気にしない〉というような意味(三沢あけみか)が元々あるようだが、「忘年会」がそこからでたものでないのは確かだ。「としわすれ」ということば・「年忘」という表記は、室町時代からあるようなのだが、「年を忘れる」のだから「忘年」なのだ、と替えてしまったのかな。
「馬」のことを「うま」と書きumaと読むのが普通であるが、高年齢層の人で、mmaと読む人も多い。「むま」という表記もそれを写したものと考えられ、蕪村が
梅咲きぬどれがむめやらうめぢゃやらと詠んだのも知られている。
そういう歴史的なことはさておき、mmaやmmeが、語頭の撥音か否かという問題がある。語頭の撥音であるとすれば、尻取り問題の他にも、日本語の音節構造の問題に関わってくる。だからこのmma,mmeの語頭の音は「ん」ではなく、「う」の変種なのだと考える方が都合がよいのだ。
しかし「出馬」がデンマであり、デンマークと同じ発音であるとすれば、mmaのmも撥音であると認めざるを得ないのではないか。「子馬」とコンマとか。
子供の時、尻取りでンで始まるものとして「んこ」がどうして認められないのだろうと疑問に思い、これを表記する時は「うんこ」と表記するのだと知った時は驚いたものであったが、これをuNkoと今言っているのはspelling pronunciationなのだろうと我が発音を内省する。「うま」をmmaでなくumaと発音するのもspellling pronunciationなのだともいうが、そうなのかも知れない。
壱芸広鉱拡伝転拝予だけで、あとは日中の様々な資料の中から見出せる字体であるという。
大正時代以後の学生のノォトあたりに起源があらうかとおもふとしている。
厶の形は日本で、こみいった漢字の構成部分等に臨時に代用されることがしばしばあるようで、と説明し、
廣の広は比較的新しいように思われます。と説明している。《国語シリーズも》
一方、專の云はどうかというとこの間見付けた。後藤朝太郎「支那俗間に見る略字の趨勢」(『岡倉先生記念論文集』1928.12)にである。後藤氏は「四川省流布小冊子に見える略字俗字」をざっと示しているのだが、その中に「傳」の略字の「伝」が有った。「草書体より来たる」文字だろうと推測している。
当用漢字字体表制定の際に、この後藤氏のものが参考にされたのか、別ルートなのか、また日本でも独自に草書体から出来たものがあったのか解らないが、ともかく見出せたのは嬉しい。
新字体批判者の中に当用漢字字体表以前には略字というものは全く存在していなかったように思い込んでいる人が有ったり、時代劇などで略字が使ってあると鬼の首でも取ったように指摘する人が居たりするのは困ったもんだ。また、当用漢字字体表にあるのと同じような部品の取り替えをJIS漢字が行っていることに対して、「これまで誰も使ったことがない」などと切り捨てる人も居るが、山田忠雄氏の『当用漢字の新字体』ぐらいは目を通して欲しい。
学生のノートといえば、講義ノートが印刷されているものがある。こうしたものは図書館にも殆ど入っていないだろうし、古本屋でもあまり流通しないだろう。手元に昭和初期ぐらいのものも有るのだが、結構略字が使われている。ガリ版専用の略字というのも有るのだろうが、こういう資料が紛失しないよう(古本屋にツブされないよう、故紙送りされないように)してほしいものだ。
さて、この本、表紙だけは活字で組んであるのだが、中身は手書きの謄写版である。いろいろと略字が見える。門構えを略すのとか(鬥も)、糸偏の「小」を横棒にするとか、
国貭囲発変仮独実学(斈も)覚挙即観触亊与亀称觧などがある。また、うまく現わせないが、
歴[厂止]、世(十せ)、単(点2つ)、個(「古」を一に)というようなものもある。また「仝」が「仝じ・仝様」など、全く「同」として使われている。
もう一冊、これは個人的に持っている『国語法概論』というのがある。表紙には
東京帝國大學文學部とあり、下の方に「京都・黎明社版」とある。橋本博士の東大での講義の記録などから見るに、多分昭和七年度のものだろうと思うのだが、それの講義ノートである。これも表紙だけ活字で中は手書きの謄写版なのだが、こちらの筆耕は丁寧に正字を書いているように見える。但し全く略字が無い訳ではなく、丁寧に見て行けばありそうである。
橋本進吉教授述(非賣品)
国語法概論
東京帝國大學文學部講義
そういえば、ガリ版の記念館かなんかがどっかにあったような。
以上ではあまりにも乏しい内容なので、もう一つ。
村松友視『俺はプロフェッショナル』(天山文庫1989.12.5)に「筆蹟鑑定業」の章がある。その中で「宿肉(しゅくにく)」ということばが出てくる。印影の横の部分ということで、偽造印鑑を見分けるポイントになるのだという。
筆跡鑑定についてはなにか本が無かろうかと思うのだが、『計量国語学』の18-4に論文がありはするものの、参照文献は「科学警察研究所報告」とかいうようなものである。
手頃な本はなくて、町田欣一『筆跡による性格診断法』(カッパブックス1961.6.20)『点と線の追跡 筆跡で人を見抜く』(大自然ブックス1973.2.28)ぐらいか。著者は筆跡鑑定に携わる人の様で前者には筆跡鑑定についても触れている。また前者の旧蔵者は私と同様、新聞の切り抜きを関連する本に挟んでおく人だったらしく、浅見喜舟『筆跡と個性』(内田老鶴圃)の広告が挟まっている。