いわゆる「蛍雪の功」を漢文脈に属する高踏的な言葉と考える人があったら、おそらく その人は「小学唱歌」を誤解している。「蛍雪の功」の源流が中国の故事にあったにもせ よ、日本化された「蛍雪の功」は大衆意識の基底にまで伝承として滲みとおっていた。こ の語は日常語を多くとりいれた『日葡辞書』(一六〇三年)に出ているだけではない。江 戸時代の辞書では『雅言集覧』にはみられず、逆に俗語を集めた『俚言集覧』に出てい る。寺子屋教育が「蛍雪の功」を庶民のものとして定着していればこそ、『蛍の光』の歌 詞は一世紀にわたる歳月に耐えて生きつづけたのではなかろうか。とある(講談社文芸文庫48頁)。高踏的であったかどうかはともかく、これらの辞書の使い方はよくない。
科研はいつの間にか奨励研究でも二年計画で出さなくてはならないようになっていて、計画を立てるのが面倒に思えた。研究費が少ないので、科研が採用されるととても助かるのは確かなのだが、やはりハードルが高い。
以前、科研が通ったときのことだが、予算の使い方もちょっと面倒だった。国立大でなかったせいもあるのだろうが、前金を要求される写真撮影・文献複写には使えなかったのだ。いや、国立大でも同じことだろう。公費・国費なんだからきちんと使って欲しい、てのはわかるんだけどね。永江さんのはかもなきことでも触れていたけど。
うちの大学でも厳密になってきた。遵法でゆこう、ということだ。学会などの時に出版社が店を並べている。その時に「これ公費でお願い」と頼むことは会計法違反なのだそうだ。その出版社を納入業者に指名していることになり、物品の利用者が指名するのは許されないことなのだそうだ。たしかに医療機具の購入などをめぐって賄賂をもらったりする人がいる現実をみると、こうした会計法はしかたのないことかもしれないが、乏しい予算をやりくりするために少しでも安く本を購入したいと言う思いが満たされないのは悲しいことだ。
古本屋で本をみつけても即座に押えることは難しい。後から正式な注文を送らせるのでそれまでkeepしておいて欲しい、と言うことは出来るが、古本屋の方でも嫌がるだろう。さっさと買ってくれる客を優先しそうだ。そういえば、京都のある古本屋で(のらくら日記の古書ドロ事件でも登場した。)、国公立大学には公費扱いをしない、事故が多いから、と言われたことがあるが、仕方ないか、という気もしてきた。あの古本屋は私もあまり好きではないが。
私の口癖と言うか、口癖歌に「論はいらない、証拠が欲しい」(「港町ブルース」のメロディーで)というのがある。「論はいらない」というのは言い過ぎだと、最近は思っているのだが、証拠を並べるだけで、論の存在を感じさせるものだったらとってもかっこいいと思う。
渡部昇一氏が言うには(確か「家事は汚職」とかいう題の『文藝春秋』の巻頭随筆)、大学の教員たるもの、家事に時間を裂くのは職責を汚すものである、「涜職」と言ってよいと。ふーむ、せいぜい「職務専念義務違反」ぐらいであろう。これを「汚職」と呼んでは本当の汚職の悪さを覆い隠すことになりそうだ。
ともかく、企業戦士ならぬ学問戦士になれ、ということであろう。家庭が崩壊しても学問が進めばそれでよいということか。だったら、大学の教員たるもの家庭など持つな、という方が説得力が有りそうだ。
京都百万遍の古書市にも行きたいが、仕事がたまっている。
あそこの100円均一コーナーにある本、売れ残ったら潰しちゃうのでしょうかね。もったいない、というかおそろしいと言うか。例えば、あそこで大田栄太郎『郷語書誌稿』の一部と思われるガリ版ずりのものを買ったことがあるのだが、現在出ている国書刊行会版のものよりも詳しいものであった。そんな私家版が、潰されることにより姿を消して行くのである。書物の敵は紙魚でも火事でもなく人間だ、と言ったのは誰だったか。
「科研・科研費」ですが、私の場合にはいつの間にか、「科研」に通って「科研費」がもらえる、というような住みわけが成立しているようです。考えてみれば変ですね。
日曜日のNHK、『日本人の質問』で、「ぎじえ」と言っているのを聞いた。「擬似餌」であろう。たしかに「擬餌」を「ぎじ」と音声化したのでは分かりにくい。
新明解の第5版が出るのに合わせて、元祖明解国語辞典が復刊されるそうだ。売れる見込みがあるのだろうな。新明解人気が知れる。
生協が文庫新書の15%引セールをやっている。本学の生協は日頃は5%引きなので、なにか買うものはないか見て回る。結局買ったのは少し。
成田一『パソコン翻訳の世界』(講談社現代新書1997.10.20)、
ジャンルと訳質(11頁)
訳質はかなり改善されている。(64頁)
訳質が向上します。(71頁)
翻訳品質にポイントを置く(78頁)
ここでは、「科研費」とあるが、ファイル名などはkakenのようだ。
通夜 11/5 1800- 葬儀 11/6 1200- 曹洞宗金西寺(コンサイジ) 福井市乾徳4-7-20
今年の春、ようやく願いが叶い、Mac用の文字ビジョンを導入することが出来た。これはカタログなども確認した。文字放送データをテキストファイルに出来る。他社のものでは出来ないものも有るようだ。
しかしこれも手元に届いてやってみると、字幕を落とすのはとても大変である。99ページまでしか保存出来ないのだが、字幕放送の場合はすぐに改頁されるので、10分も立たぬうちにメモリが埋まってしまう。長い番組の字幕を落とすにはマシンに付きっきりで、タイミングを見計らいながらファイル化しなければならない。ビデオに録画したものには文字放送情報は残っていないようだから、大変な作業である。説明書を読むと、「字幕放送には対応していない」、とあった。これはカタログや外装の箱には書いていない。テレビ画面に対応して字幕がかわる、というのに対応させるのが大変なのだろうけれども。
福井では文字放送はNHKだけが行なっているので、カラオケの放送はない。
がっくり。ショックから立ち直った半年後にようやくこれを書く。
赤本を作っている教学社と、『古辞書を学ぶ人のために』などを出している世界思想社は同じ住所にある(京都市左京区岩倉)。
散髪屋で「エンダツ」という略語を仕入れた。「円形脱毛症」である。「円形脱毛症」は「円形脱毛・症」なのか「円形・脱毛症」なのかよく分からないが(多分「円形脱毛・症」?)、エンダツは「円形・脱毛症」としての略語なのだろう。
こんな風に意味上の区切りとは違う部分の頭を取って略語が作られることもよくありそうだ。
私達理科系統の者にとっては、この事は謎でも何でもなく、何の疑問も持たない所であり、謎とされる事が不思議な気がする。それば遊星も惑星も同様な思想から来ている語であり、特別に区別をする必要もなく、人によってどちらを使うかは単にその人の趣味の問題に過ぎないからである。私自身その時の気分によって遊星と書いたり惑星としたりしている。という前置きの後に、ご自身の調査結果を述べておられる。「遊星」については私の引いた『遠西観象図説』も出てくる。「惑星」は、横田氏の引いたものと同じであるが、横田氏の享保というのは誤記であった。1792年を1729年と誤ったのであろうか。私もうっかりつられてしまった。
遊星、惑星の問題はそれに関する当時の専門書に就て歴史を探求すべきであり、小説その他を資料にするのは、あまり意味のない無価値に近い事である。私などは、「惑星」というと学術用語のような気がし、「遊星」というとファンタジーなどに使われる用語のような気がする。子供の頃には、「遊星」が惑星のことだとは知らなかった。こうした感覚はいつ頃からあるのだろう。これは「理科系の人の文書」を調べるだけでは決して出て来ないものであろう。
ここが文科系と理科系との事実に対する態度に、大きい差がある所である。という言葉には、「それが理科系の立場であるのならおっしゃる通りです」と答えたい、胸を張って。理科系の人みんながこうではない筈なのだが。