目についたことば

目についたことば、耳に触れたことばから連想するさまざまなことを書いています。
岡島昭浩
97.10.3
 昨日のニュースで「福岡県古賀市」といっていた。そういえば、10/1づけで市制施行ということを聞いていた。糟屋郡から市が出来るのは初めてだと思う。これまでは福岡市に吸収されるばかりだったのだが。
 しかし「古賀」という地名人名は九州には本当に沢山存在するのだが、本州では絶えてお目にかからない。

 今朝のニュースで、これからの情報教育を考える云々、というのをやっていたが、その中で、インターネットやパソコン通信の情報には、嘘や意図的な加工があるから注意すべきだということも教えなければならない、という提言があった言っていたが、新聞やテレビにも嘘や意図的な加工があることをもっと教育した方がいいんではないかと思う。
 まあそういう提言がなされてもそれがニュースで報道されるとは限らないわけだが。


97.10.4
 昨日の続きになるが、書籍や辞書にも誤りがあるのだ、という教育は大事だが結構難しいもんだ。以前、『日本国語大辞典』といえども、辞書をあてにしちゃ駄目だよ、と教えたつもりが、  
『日本国語大辞典』に、こういう説が有りましたが、『日本国語大辞典』はあてにならない、ということなので無視しました。
と言われて驚いたことがある。
 こういう「全か無か」という感じの捉え方はやめてほしい。すべての情報源に対して疑ってかからねばならない、信じるのは自分自身の感覚だ、というと、
こんなことは信じられないので違っていると思います
と来る。
 ちゃんと、現物に当っての上での、自分の感覚なのに。
 〈これらは福井大学でのエピソードではありません〉
97.10.9
 オーストラリアでの日本女性の事件の報道で聞いた「着衣をつけていない」という言い方におやっと思った。衣服を着けてない、着衣のない、でいいんじゃないか、と。別に間違い、というわけではないが、ニュース原稿としては冗長ではないかな、と。

 9/29の福井新聞。「日中国交正常化」を「日中正常化」ってのはちょっと略し過ぎじゃないか?
 福井新聞はあまり読む所がないので、「赤ちゃん」なんて欄を眺めたりもするのだが、読み仮名が無いのが悲しい。「海」は語頭(名頭?)でも「み」と読ませるのが普通になっているようで、「海月」はミヅキと読ませるつもりなのだろうが、どうしてもクラゲと読んじゃうよね。


97.10.11
 ノートパソコンの液晶が壊れた。編集中のファイルがあり、手探りでエディタを終了させ、フロッピーに保存させた積りだったが、そうはなっておらず、数時間の作業が飛んでしまった。古い98ノートはそのままではCRT出力が出来ず、お蔵入りにせざるをえない。ハードディスクの中身は誰かから98ノートを借りて読み出すしかあるまい。面倒だな。いずれにしろ今日の作業は消えてしまったわけだ。
 しかし、不幸中の幸いだったことは、ある文章を書き終えた後であったということ。

 ノートパソコンの液晶というのは壊れる運命に有るのか。私の持ち運び方が乱暴なのか。いずれにせよ、液晶そのものよりも、本体と液晶を繋ぐ部分がネックになっていて、あそこがいかれてしまうようだ。しばらく前から勝手に電源が切れたり入ったりして困っていた。IBMのThinkPadは蓋と電源の連携を断ち切ることも出来たのだが、98NS/Tではそうしたものが見当たらず、苛々しながらやっていたのだ。で、電源が切れぬように、蓋を支えるように折り曲げた紙を挟んだのだが、結果的にそれが破損を早めたのかもしれない。

 考えてみれば、他の98ノートを借りて来なくてもHDのデータは取り出せることに気付いた。まず、ls -lR(doko *.*でもいい。dirではちょっと面倒)で、ファイルの一覧をフロッピーにリダイレクトして落とす。これぐらいは手探りでも可能だ。で、そのフロッピーをmacに持って来て、mac上でdos用のバッチファイルを作る。

copy a:\data\rinji\html\目に言葉\雑記.txt b:
copy a:\data\rinji\html\目に言葉\メモ.htm b:
などと。データ量が700kbを越えないように気をつけて。
 これに「1.bat」などと簡単な名前を付けておいて、98に持って行って実行。
b:\1
下の方のディレクトリのものや漢字の入ったファイル名でもこれでOKだ。
 やはりCUI(DOS)は有り難い。GUI(WIN)だとこうはいかんだろう。

 マックスリンクのケーブルがいかれているのも作業を困難にしている。普通のクロスケーブルを使うrdsikというソフトは、98とdos/v機(カミさんの)を結ぶと死ぬほど遅いし。しかし1.2MBを越えるファイルのコピーは分割してやるよりもこっちがよさそうだ。あれ、dosで分解したやつをMACで元に戻すやつってあったっけ。そんためにsoft-windowsを使うのもなんだしなあ。


97.10.12
 昨日は、京大で行なわれている言語学会の講演を聞きに行こうと思っていたのだが、なんのかんので逃してしまった。今週末は山形で国語学会。宿のことを甘く見ていたのがわかる。困った。出張願いをもう出してしまっているというのに。山形で路頭に迷ったらどうしよう。

 昨日の文、GUIと言いながら、MACについてはノーコメントであった。以前から、MACはDOSに降りられないのがWindowsに敵わないところだ、と思っている。
 文書を書いたり、検索したりするのはDOSだと思っていて、次のノートパソコンを買う時もPowerBookは全く選択肢に入っていない。Windowsの機種を買ったあと、そのWindowsを削ってDOSを入れるか、95のDOSを使うか、考えているわけなのだ。95のDOSモードって、95を立ちあげたあと「終了」から行くのでなく、直接行けるのでしょうか。まったく素のままのDOSで日本語が使えない、とかいうのが立ち上がったらまた困ってしまいますが。
 いずれにしろ、データの量を考えると削った方がよさそうだ、と思う。95が動く環境は確保しておきたいが、SoftWindows95がなんとか使えるようになったからまあそれでよかろう。
 実は、買う目処は全くたっていないのだが。
 妻から、ThinkPad360c(Windows3.1)は家計簿を付けるとき以外に使っていないから、それ以外の時には使っていい、と言ってもらっているのだが、もともとHDが小さいのでデータをあまり入れておけない。

 【主】
 プロ野球、横浜ベイスターズの「守護神」であるところの「大魔神」、佐々木投手の名は「主浩」と書いて「かずひろ」と読むようだ。この「主」をカズと読むのは「主計」とかいて「かずえ」と読むのを思い出す。「計」が〈かぞえる〉ことで「主」はそれをつかさどることではないかと思ったのだがよくわからない。いずれにせよ「主」で〈かず〉と読むのは要チェック。
 女子マラソンの真木和、和をイズミと読むのにも驚いた。「和泉」をイズミとよむことからきたのだろうが、「泉」がイズミであるのに「和」を加えて(国名を二字にしたかった)出来たのが「和泉」の表記だ。〈ひさしを貸して母屋がとられる〉というか。取られたわけではないが。援助してくれた他店に暖簾を貸すという感じか。ついでにいえば、「真木和泉」は幕末の歴史や福岡の郷土史に出てくる人物。


97.10.13
 岐阜大の佐藤さんから、Windows95でのDOS立ち上げについて教えて頂き、ちゃんと日本語の状態で使えるのだと分かった。丁度、金沢美大の高橋さんのページで、なぜ窓から出て行かないのか!が、久しぶりに改訂されている。DOSプロンプトでもいろいろ出来るらしい。しかし割印帳のデータ、ってのが気になります。

【チャンチャン】
 話が終ったりする時に「チャンチャン」というのはどういう由来なのであろう。「ソド」という感じで音楽が終るやつ(ギャグの「落ちですよ」というやつ)かな、と思ったらもっと古そうだ。なんと平田篤胤の伴信友宛て書簡(文化十二年)にあった。

コレニテチヤン/\ 三月六日
 大鹿久義『伴信友来翰集』(小浜市立図書館19893.20)191頁

 これで、子供の絵本を読み終わり、チャンチャンと言う時に感じるちょっとしたうしろめたさを感じずに済む。


97.10.14
コレカラ講談ハジマリ/\、ヤレイソガシヤ
(平田篤胤の伴信友宛書翰より)
やっぱり篤胤って変わってる、というか。信友と絶交したのもしょうがない? でも篤胤が現代人だったら絶対インターネットをやってそう。
97.10.16
 岐阜大佐藤さんの芳名帳を見て初めて、方言研究会の会場が近代語研究会や訓点語学会とは別だということに気付いた。メールで案内を貰っていたというのに、ちゃんと見ていなかったのだ。遊学館2階ホール(〒990 山形市緑町1丁目2−3  TEL 0236-25-6411)か。
 山形へは「日本海」にのって行こうと思っていたのだが、満席(満床?)のようなので、「きたぐに」で行くことにしよう。山形に到着するのは昼ごろになるので、方言研究会は無理だな。
 しかしなあ、週2コマ、というのはうらやましいことだ。私も短大時代には、後期は3コマであった。持ち駒倍増である。
97.10.20
 山形より無事帰還。
97.10.24
 行きのきたぐにで新潟近くで目覚めた時に近くにいた人。どうも見覚えがある。国語学関係者であるような気がする。でも思い出せない。多分私には無理だ。やはり同じ米沢行の汽車に乗り込む。話し掛けようかと、と思うが出来ない。米沢で乗換える。やはり山形に向かう。山形で下車する。学会の会場でも見掛ける。でも結局だれなのか分からず。

97.10.25
 学会に出かけていろいろと刺激を受け、学会疲れが取れた後で、授業に追われながらも学会の時に感じたことを自分なりに整理しようとしていた。

 純粋に学問的なことも有れば、学問のための技術的なこともある。技術的なことで言えば、訓点語学会での金水敏氏の発表「計算機による古典籍資料の組版・印刷について」に刺激を受けた。まずは、LateXが使えるようにしなければいけないので、慶応大学の内山さんのMacpTeX Home Pageに出かける。
 取り敢えず使えそうな様子なので、早速、金水さんのページに行き、訓点語用のマクロが置いてあるFTPに飛ぶ。訓点語学会で発表を聞いた人が殺到しているわけではないだろうが、なかなか繋がらなかった。繋がって見ると、今回の発表に関わるものが沢山置いてあった。
 早速コンパイルして見る。すると、lingmacros.styというのが入っていないようで、altavistaで探す。樹形図とかはまず使わないと思うのだが、treeprint.styもget。しかしどうも、WinTeXの仕様に準拠して書いてあるせいか、MacのpLaTeXではうまく通らないものも多いようだ。
 シフトJISに変更しないといけないのであった。改行コードもMacらしくしておかないと。この辺は、いつもJeditを使っているのであまり気にしなくなっているが、忘れてはいけないのだった。

 私はどうも印刷が苦手である。印刷のたびにプリンターを怒鳴りあげている。「こら、そうやなかろうが」「こら何でそんなに何枚も一遍に吸い込んで行くんや」「ああ、こらびしょびしょやないか」
 多分、TeXを導入してもさしたる進歩はないのではないか、とも思う。


97.10.26
 最近サーバーの調子が悪い。しょっちゅうアクセスを受け付けない状態となる。アクセスが増えたせいとばかりも言えないようだ。中身の充実よりもこうしたことに時間を食うようではいけないのだが。
 98ノートが壊れてから、常用フロッピーの数が増えてしまい、必要なファイルを探すのに時間を食う。やはり時間節約のために新マシンを、とも思うのだが、買ってしばらくはいろいろと時間を食うし。もちろん金はないし。

 家族で県立図書館にゆく。こども室に入るとアリス館のことばシリーズがあった。市立図書館の子供コーナーには彦坂氏の方言の巻しか入っていなかったのだが、ここには、安部清哉氏の系統論だとか、湯浅茂雄氏の新語流行語だとか、飛田良文氏・荒尾禎秀氏の語源のだとかもあった。こうした子供の本は研究費でわざわざ買うのもなんだし、こうした公共図書館に入ってくれると助かる。学研の方言の本もそうだ。
 図書館といえば、新聞は縮刷版が入ると、もとの物は破棄される可能性が高いらしい。これは将來困ることになりそうだ。縮刷版は大体が東京最終版だ。地方版はどこで保存するのか。それぞれの地元で保存しておかないとだめだろう。最近の分は新聞社でも電子的などの方法で保存しているのだろうが、新聞者側が後になって記事を見せたくなくなる可能性だって有り得る。隠蔽されぬためにも地方の図書館が保存しておかねばなるまい。地方面の縮刷版もあるということだが、さほど売れそうもないことを考えるとえらく高そうだ。
 しかし、最近は複刻版がよく出る。今度の学会でもCD-ROM版の群書類従のパンフレットをもらった。大空社、3枚組、5万円。活字本の画像ということだ。電子テキストか板本の画像かならば快挙だと思うが、今ひとつ食指が動かない。「文献一覧」「文献年表」はテキストデータで、ということだが。
 「板本の画像ならすぐにでも買うが」というと出版社の人は「CD-ROMが膨大な数になりますよ」。でも本物の板本に比べたら……。板本は持っていない図書館も多そうだから売れそうだけど。いや、数年前に板木からすってます、というのを出してましたよね。あまり売れなかったのかな。

 明治期国語辞書大系。たしかに古本屋で買うのに比べたら安いのかもしれないがちょっと手が出ない。雅俗・俗雅辞書も収録されるようでよいことだが、買えないのでは仕方が無い。
 そう言えば、『国語論究6近代語の研究』(明治書院)に飛田良文氏・宮田和子氏の「十九世紀英華・華英辞典目録」が載っている。福井大学の図書館にも所蔵を問い合わせたようだ。Gilesの辞書、第2版が福井大学にもあるのだが、この目録には載っていない。問い合わせを受けても見出せなかったのであろう。また目録によれば復刻版は1964,1967,1972と出たそうである。復刻版は私も持っているが(中国各地の方言音が示して有り有坂秀世氏が使う物だから買ったのだ)、1972年よりは新しそうな感じである。確認してみよう。


97.10.27
 手元のGilesの辞書は、1978年、成文出版社であった。意外に古い。新本かと思っていたのだが、売れ残っていたものだったのだろうか。1990年に琳瑯閣で買っている。図書館のは未調査。

 TeXについて北海道大の池田さんから資料を送って頂いた。金水さんのマクロがインプレス社のものを使はないと動かない、というのを読んで納得。しかしfmtファイルだけのために買うのは癪だ。


97.10.28
 佐藤さんの気になることばで紹介している「を」について考えよう、面白いですね。
 今度の学会で刺激を受けたのが、これに関連する研究発表でした。
 実は私は、今でも「重いオ」などと言っているということを初めて知ったのは、筑波大学の言語の掲示板ででした。「を」について、教えて下さい!から始まるものです。コメントツリーになっていないけれどその後の「重い『を』」もコメントです。今年の2月ごろですね。「を」について考えようの方は、多くは去年の情報ですからこっちのほうが先行してるわけですか。
 筑波の掲示板には宣長『字音仮字用例』、義門『於乎軽重義』が引いてありますが、これを見た時に「をお」を軽重で捉えることは、たしか定家仮名遣の末書にも見られることであった……、と思ったのでしたが、その時にちゃんと調べていないのが私の後悔。調べていなかったから学会でもちゃんとした質問が出来なかった、というわけ。土曜日に予稿集を手に入れてから、パソコンを持ち歩けないことにも哀しい思いをしたことであった。
 で、今回、研究発表を聞いて大いに刺激を受け、帰宅後、ようやく調べたのでした。木枝増一『仮名遣研究史』を見ると確かにそのようです。多くは「お」が重く「を」が軽いように書いてありますので、宣長や義門、さらに現代のものとは逆で、これで『於乎軽重義』の題名の意味することがよくわかります。『字音仮字用例』にも、「俗書ノカナヅカヒドモニ言語ノ輕重ヲ云ルハ、ミナ杜撰ノ臆度ニテ、一ツモ古ヘノ假字ニ合フコトナケレバ、サラニ論スルニ足ラズ」とあるのですね。

 しかし現代に於いて「を」について語られる時に話がややこしくなるのは、助詞の表記だけに「を」が残された、ということがある。発音は全く「お」と同じなのに。
 表記が違うものだから発音も違うと思うのだろう、「NHKのアナウンサーは「を」をwoと発音している」などという人が出て来る。まさか、と思ったがそんなことは『アナウンス読本』には書いていないのでひとまず安心《でも勝手にそう思いこんで発音している人が居るかも》。〈表記が違うから発音も違うはず〉で発音を変えるのも一種の綴り字発音(spelling pronunciation)なのだろう。鼻濁音を持たない人が、練習して助詞の「が」だけを鼻濁音で読むのに似ている(結構居るんです、こういう人)が、これは綴り字発音とは言えないなぁ。
 あと、前後の音環境でwoと発音されてしまうことが有るのを取り上げて、「oとwoの2種の音がある」という人もある。それがよその方言だと、「あの地方には「を」と「お」の区別がある」、とみなしてしまう人が居る。
 国語の教師になろうという人は、この辺、しっかり押えておいて下さいね。小学生に国語を教える人もね。理科専修でも数学専修でも同じです。頼みますよ。

 戦後すぐの「現代かなづかい」から昭和61年に「現代仮名遣い」に改訂された、ということを勘違いしたのだろうか、「現代かなづかいでは「ゐゑ」を使う」というようなことを答案に書いていた学生が居た。がっくり。


97.10.31
 今年も科研費の申請を諦めることになった。奨励研究に相当するのは去年で終わりだろうと思っていたが、今年も出せると知り、急遽準備に取り掛かったのだが、あえなく断念。TeXの導入もこれでしばらくお預けか。

 「三共z胃腸薬」とかいう薬の宣伝を見た。「新三共胃腸薬」の次は「新新……」ではなかったのだ。「新新宗教」とか「新新党」とかあまり評判が良くないからね。でも、「z」というのもすごいな。大学の教養部の頃、こうした商品名の末尾に来るアルファベットというのを収集しかけたことがある(ひまだねえ。だって私の出た大学の教養部って国語学の授業は皆無だったんです)。ミリオンテックスゼットという洋服が有った。ロートズィーというのはまだ無かったように思う。
 いずれにせよこの「z]というのは最後ということを意味しているはずだ。文字表の最後、といえばΩだが、今月の初めに対馬のオメガが廃局になったというニュースを読んだ。あれも船を誘導する究極のシステムという命名だったはずだが、人工衛星のGPSの前にはあっけなくその座を明け渡してしまったというわけだ。

 明治書院『日本語学』16卷12号(1997年11月号)「特集 ことばを調べる」に「インターネットで調べる」というのを書いた。次号が発行された後にwebに掲げるつもりだったが、URL等の誤植が目につくので発行と同時に掲げることにする。電子入稿だったのだが、FAXで送られてきた校正刷を見ると、どうやら別途に入力したものらしく、漢字の違いなども有った。またFAXなので、小さな英数字などはっきりしなかったが、出来上がりを見ると「.」が幾つか落ちていた。月刊誌というのは慌ただしいものであるなあ、という思いと、商業誌でも編集部による校正は無いのだなあ、という感想を持ったことだった。「~」の印刷もいろいろ揺れている。これは私の指示が悪かったのだろう。「行の中程に来るよりも上部に来るのが普通」と指示したのだが、いっそ指示しなければよかった。56頁上段「冒涜」の字、作字しているようですね。「印刷の時は本字でしょうか」と校正の余白に書き込んだ結果です。校正ずりの打ち出しと、本物のうちだしでは字体が違うこともあるので尋ねたのですが、わざわざ作らせて悪かったと思います。地の文じゃなくて引用なのでちょっと気をつけたのですが。

 勉誠社の『人文学と情報処理』15号に載る予定の「日本語研究におけるインターネット利用の現状について」は夏休み前に書いたものだがまだ出ない。

 なんだか似たようなところから沢山読みに来ている、とおもったら、こんなふうにリンクされている。『言海』の「採集語類別表」をテーブルで、とcsvでと両方掲げておいたのだが、それを授業で紹介しているというわけだ。なるほどねぇ。でも「言海」も何も知らずに見るわけだね、これを。ちょっと辛いなあ。出口アンカーを作ってないのも悪いんだけどね。


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