今朝のニュースで、これからの情報教育を考える云々、というのをやっていたが、その中で、インターネットやパソコン通信の情報には、嘘や意図的な加工があるから注意すべきだということも教えなければならない、という提言があった言っていたが、新聞やテレビにも嘘や意図的な加工があることをもっと教育した方がいいんではないかと思う。
まあそういう提言がなされてもそれがニュースで報道されるとは限らないわけだが。
『日本国語大辞典』に、こういう説が有りましたが、『日本国語大辞典』はあてにならない、ということなので無視しました。と言われて驚いたことがある。
こんなことは信じられないので違っていると思いますと来る。
9/29の福井新聞。「日中国交正常化」を「日中正常化」ってのはちょっと略し過ぎじゃないか?
福井新聞はあまり読む所がないので、「赤ちゃん」なんて欄を眺めたりもするのだが、読み仮名が無いのが悲しい。「海」は語頭(名頭?)でも「み」と読ませるのが普通になっているようで、「海月」はミヅキと読ませるつもりなのだろうが、どうしてもクラゲと読んじゃうよね。
ノートパソコンの液晶というのは壊れる運命に有るのか。私の持ち運び方が乱暴なのか。いずれにせよ、液晶そのものよりも、本体と液晶を繋ぐ部分がネックになっていて、あそこがいかれてしまうようだ。しばらく前から勝手に電源が切れたり入ったりして困っていた。IBMのThinkPadは蓋と電源の連携を断ち切ることも出来たのだが、98NS/Tではそうしたものが見当たらず、苛々しながらやっていたのだ。で、電源が切れぬように、蓋を支えるように折り曲げた紙を挟んだのだが、結果的にそれが破損を早めたのかもしれない。
考えてみれば、他の98ノートを借りて来なくてもHDのデータは取り出せることに気付いた。まず、ls -lR(doko *.*でもいい。dirではちょっと面倒)で、ファイルの一覧をフロッピーにリダイレクトして落とす。これぐらいは手探りでも可能だ。で、そのフロッピーをmacに持って来て、mac上でdos用のバッチファイルを作る。
copy a:\data\rinji\html\目に言葉\雑記.txt b: copy a:\data\rinji\html\目に言葉\メモ.htm b:などと。データ量が700kbを越えないように気をつけて。
b:\1下の方のディレクトリのものや漢字の入ったファイル名でもこれでOKだ。
マックスリンクのケーブルがいかれているのも作業を困難にしている。普通のクロスケーブルを使うrdsikというソフトは、98とdos/v機(カミさんの)を結ぶと死ぬほど遅いし。しかし1.2MBを越えるファイルのコピーは分割してやるよりもこっちがよさそうだ。あれ、dosで分解したやつをMACで元に戻すやつってあったっけ。そんためにsoft-windowsを使うのもなんだしなあ。
昨日の文、GUIと言いながら、MACについてはノーコメントであった。以前から、MACはDOSに降りられないのがWindowsに敵わないところだ、と思っている。
文書を書いたり、検索したりするのはDOSだと思っていて、次のノートパソコンを買う時もPowerBookは全く選択肢に入っていない。Windowsの機種を買ったあと、そのWindowsを削ってDOSを入れるか、95のDOSを使うか、考えているわけなのだ。95のDOSモードって、95を立ちあげたあと「終了」から行くのでなく、直接行けるのでしょうか。まったく素のままのDOSで日本語が使えない、とかいうのが立ち上がったらまた困ってしまいますが。
いずれにしろ、データの量を考えると削った方がよさそうだ、と思う。95が動く環境は確保しておきたいが、SoftWindows95がなんとか使えるようになったからまあそれでよかろう。
実は、買う目処は全くたっていないのだが。
妻から、ThinkPad360c(Windows3.1)は家計簿を付けるとき以外に使っていないから、それ以外の時には使っていい、と言ってもらっているのだが、もともとHDが小さいのでデータをあまり入れておけない。
【主】
プロ野球、横浜ベイスターズの「守護神」であるところの「大魔神」、佐々木投手の名は「主浩」と書いて「かずひろ」と読むようだ。この「主」をカズと読むのは「主計」とかいて「かずえ」と読むのを思い出す。「計」が〈かぞえる〉ことで「主」はそれをつかさどることではないかと思ったのだがよくわからない。いずれにせよ「主」で〈かず〉と読むのは要チェック。
女子マラソンの真木和、和をイズミと読むのにも驚いた。「和泉」をイズミとよむことからきたのだろうが、「泉」がイズミであるのに「和」を加えて(国名を二字にしたかった)出来たのが「和泉」の表記だ。〈ひさしを貸して母屋がとられる〉というか。取られたわけではないが。援助してくれた他店に暖簾を貸すという感じか。ついでにいえば、「真木和泉」は幕末の歴史や福岡の郷土史に出てくる人物。
【チャンチャン】
話が終ったりする時に「チャンチャン」というのはどういう由来なのであろう。「ソド」という感じで音楽が終るやつ(ギャグの「落ちですよ」というやつ)かな、と思ったらもっと古そうだ。なんと平田篤胤の伴信友宛て書簡(文化十二年)にあった。
コレニテチヤン/\ 三月六日大鹿久義『伴信友来翰集』(小浜市立図書館19893.20)191頁
これで、子供の絵本を読み終わり、チャンチャンと言う時に感じるちょっとしたうしろめたさを感じずに済む。
コレカラ講談ハジマリ/\、ヤレイソガシヤ(平田篤胤の伴信友宛書翰より)
97.10.25
学会に出かけていろいろと刺激を受け、学会疲れが取れた後で、授業に追われながらも学会の時に感じたことを自分なりに整理しようとしていた。
純粋に学問的なことも有れば、学問のための技術的なこともある。技術的なことで言えば、訓点語学会での金水敏氏の発表「計算機による古典籍資料の組版・印刷について」に刺激を受けた。まずは、LateXが使えるようにしなければいけないので、慶応大学の内山さんのMacpTeX Home Pageに出かける。
取り敢えず使えそうな様子なので、早速、金水さんのページに行き、訓点語用のマクロが置いてあるFTPに飛ぶ。訓点語学会で発表を聞いた人が殺到しているわけではないだろうが、なかなか繋がらなかった。繋がって見ると、今回の発表に関わるものが沢山置いてあった。
早速コンパイルして見る。すると、lingmacros.styというのが入っていないようで、altavistaで探す。樹形図とかはまず使わないと思うのだが、treeprint.styもget。しかしどうも、WinTeXの仕様に準拠して書いてあるせいか、MacのpLaTeXではうまく通らないものも多いようだ。
シフトJISに変更しないといけないのであった。改行コードもMacらしくしておかないと。この辺は、いつもJeditを使っているのであまり気にしなくなっているが、忘れてはいけないのだった。
私はどうも印刷が苦手である。印刷のたびにプリンターを怒鳴りあげている。「こら、そうやなかろうが」「こら何でそんなに何枚も一遍に吸い込んで行くんや」「ああ、こらびしょびしょやないか」
多分、TeXを導入してもさしたる進歩はないのではないか、とも思う。
家族で県立図書館にゆく。こども室に入るとアリス館のことばシリーズがあった。市立図書館の子供コーナーには彦坂氏の方言の巻しか入っていなかったのだが、ここには、安部清哉氏の系統論だとか、湯浅茂雄氏の新語流行語だとか、飛田良文氏・荒尾禎秀氏の語源のだとかもあった。こうした子供の本は研究費でわざわざ買うのもなんだし、こうした公共図書館に入ってくれると助かる。学研の方言の本もそうだ。
図書館といえば、新聞は縮刷版が入ると、もとの物は破棄される可能性が高いらしい。これは将來困ることになりそうだ。縮刷版は大体が東京最終版だ。地方版はどこで保存するのか。それぞれの地元で保存しておかないとだめだろう。最近の分は新聞社でも電子的などの方法で保存しているのだろうが、新聞者側が後になって記事を見せたくなくなる可能性だって有り得る。隠蔽されぬためにも地方の図書館が保存しておかねばなるまい。地方面の縮刷版もあるということだが、さほど売れそうもないことを考えるとえらく高そうだ。
しかし、最近は複刻版がよく出る。今度の学会でもCD-ROM版の群書類従のパンフレットをもらった。大空社、3枚組、5万円。活字本の画像ということだ。電子テキストか板本の画像かならば快挙だと思うが、今ひとつ食指が動かない。「文献一覧」「文献年表」はテキストデータで、ということだが。
「板本の画像ならすぐにでも買うが」というと出版社の人は「CD-ROMが膨大な数になりますよ」。でも本物の板本に比べたら……。板本は持っていない図書館も多そうだから売れそうだけど。いや、数年前に板木からすってます、というのを出してましたよね。あまり売れなかったのかな。
明治期国語辞書大系。たしかに古本屋で買うのに比べたら安いのかもしれないがちょっと手が出ない。雅俗・俗雅辞書も収録されるようでよいことだが、買えないのでは仕方が無い。
そう言えば、『国語論究6近代語の研究』(明治書院)に飛田良文氏・宮田和子氏の「十九世紀英華・華英辞典目録」が載っている。福井大学の図書館にも所蔵を問い合わせたようだ。Gilesの辞書、第2版が福井大学にもあるのだが、この目録には載っていない。問い合わせを受けても見出せなかったのであろう。また目録によれば復刻版は1964,1967,1972と出たそうである。復刻版は私も持っているが(中国各地の方言音が示して有り有坂秀世氏が使う物だから買ったのだ)、1972年よりは新しそうな感じである。確認してみよう。
TeXについて北海道大の池田さんから資料を送って頂いた。金水さんのマクロがインプレス社のものを使はないと動かない、というのを読んで納得。しかしfmtファイルだけのために買うのは癪だ。
しかし現代に於いて「を」について語られる時に話がややこしくなるのは、助詞の表記だけに「を」が残された、ということがある。発音は全く「お」と同じなのに。
表記が違うものだから発音も違うと思うのだろう、「NHKのアナウンサーは「を」をwoと発音している」などという人が出て来る。まさか、と思ったがそんなことは『アナウンス読本』には書いていないのでひとまず安心《でも勝手にそう思いこんで発音している人が居るかも》。〈表記が違うから発音も違うはず〉で発音を変えるのも一種の綴り字発音(spelling pronunciation)なのだろう。鼻濁音を持たない人が、練習して助詞の「が」だけを鼻濁音で読むのに似ている(結構居るんです、こういう人)が、これは綴り字発音とは言えないなぁ。
あと、前後の音環境でwoと発音されてしまうことが有るのを取り上げて、「oとwoの2種の音がある」という人もある。それがよその方言だと、「あの地方には「を」と「お」の区別がある」、とみなしてしまう人が居る。
国語の教師になろうという人は、この辺、しっかり押えておいて下さいね。小学生に国語を教える人もね。理科専修でも数学専修でも同じです。頼みますよ。
戦後すぐの「現代かなづかい」から昭和61年に「現代仮名遣い」に改訂された、ということを勘違いしたのだろうか、「現代かなづかいでは「ゐゑ」を使う」というようなことを答案に書いていた学生が居た。がっくり。
「三共z胃腸薬」とかいう薬の宣伝を見た。「新三共胃腸薬」の次は「新新……」ではなかったのだ。「新新宗教」とか「新新党」とかあまり評判が良くないからね。でも、「z」というのもすごいな。大学の教養部の頃、こうした商品名の末尾に来るアルファベットというのを収集しかけたことがある(ひまだねえ。だって私の出た大学の教養部って国語学の授業は皆無だったんです)。ミリオンテックスゼットという洋服が有った。ロートズィーというのはまだ無かったように思う。
いずれにせよこの「z]というのは最後ということを意味しているはずだ。文字表の最後、といえばΩだが、今月の初めに対馬のオメガが廃局になったというニュースを読んだ。あれも船を誘導する究極のシステムという命名だったはずだが、人工衛星のGPSの前にはあっけなくその座を明け渡してしまったというわけだ。
明治書院『日本語学』16卷12号(1997年11月号)「特集 ことばを調べる」に「インターネットで調べる」というのを書いた。次号が発行された後にwebに掲げるつもりだったが、URL等の誤植が目につくので発行と同時に掲げることにする。電子入稿だったのだが、FAXで送られてきた校正刷を見ると、どうやら別途に入力したものらしく、漢字の違いなども有った。またFAXなので、小さな英数字などはっきりしなかったが、出来上がりを見ると「.」が幾つか落ちていた。月刊誌というのは慌ただしいものであるなあ、という思いと、商業誌でも編集部による校正は無いのだなあ、という感想を持ったことだった。「~」の印刷もいろいろ揺れている。これは私の指示が悪かったのだろう。「行の中程に来るよりも上部に来るのが普通」と指示したのだが、いっそ指示しなければよかった。56頁上段「冒涜」の字、作字しているようですね。「印刷の時は本字でしょうか」と校正の余白に書き込んだ結果です。校正ずりの打ち出しと、本物のうちだしでは字体が違うこともあるので尋ねたのですが、わざわざ作らせて悪かったと思います。地の文じゃなくて引用なのでちょっと気をつけたのですが。
勉誠社の『人文学と情報処理』15号に載る予定の「日本語研究におけるインターネット利用の現状について」は夏休み前に書いたものだがまだ出ない。
なんだか似たようなところから沢山読みに来ている、とおもったら、こんなふうにリンクされている。『言海』の「採集語類別表」をテーブルで、とcsvでと両方掲げておいたのだが、それを授業で紹介しているというわけだ。なるほどねぇ。でも「言海」も何も知らずに見るわけだね、これを。ちょっと辛いなあ。出口アンカーを作ってないのも悪いんだけどね。