【吹殻】
つい先日までずっとこの「吹殻」というのは、「吸殻」の誤記だと思ってきた。これを目にしたのは、九州大学の生協購買部や農学部食堂の建物に有ったトイレに於いてである。もう十数年まえのことだ。〈吹殻を捨てるな〉というようなことが書いてあり、「吹」という文字の横には別の人のものと思われる筆跡で「? スイ?」というように書いてあった。
「吸」と「吹」は形が何となく似ているし、「吹」は音が「スイ」なので(「吹聴」を「フイチョウ」と読むことについては今回は触れず)、スイガラを「吹殻」と誤記することは如何にもありそうなことだと思ったわけだ。
ところが、落語「百年目」の中で「フキガラ」といっていたので我が不明を恥じた。『日本国語大辞典』で引くと、江戸時代の例が挙っている。考えてみれば、煙草は「すう」ものだが、「ふかす」ものでもある。でも「のみがら」といのはなさそうだ。
そういえば、九州から戻る道で見かけた看板に「アスファルトガラ買います」(「引き取ります」だったかも)というのがあった。「石炭ガラ」というのがあるから、アスファルトを燃やした後なのかな。それとも使用後なのか。
しかし、運転する時はメモを取れないのがつらい。車窓に面白いものが書いてあるのを見付けたり、ラジオで面白いことをいっていたりするのだが、メモを取れないのですぐ忘れてしまう。車を止めた時に鉛筆と紙を取り出しても思い出せないことがある。思い出せても前後の細かい部分は思い出せることは少ない。デジタルカメラなどを当てずっぽうで向けてシャッターを押したりするが、思い出す為の手がかりとなるぐらいで、【空高注意】ほどきれいに写るのは稀である。あれは以前から気にしていて、いずれカメラに収めようと思っていたから出来たのであって、咄嗟では難しい。
同乗者に話し掛けて記憶に留める、という手もあるが、話し掛けにくいこともある。なかなか難しいものである。
さて、九号線を外れてから兵庫か京都のどこかで目にしたのだと思うのだが、「法面」という表記があった。おやっと思ったが、それだけ。しかし、今日のニュースで「ノリメン」ということばが耳に飛込んできて「法面」を思い出した。これだ。ニュースでは高速道路の「ノリメン」に亀裂が入っているのが見つかったと行っていたが、山を切開いて作った道の縦の面を「ノリ」というのであろう。見かけた「法面」もそんな感じの使い方だった。
【かみてぼ】
先日、『クイズ赤恥青恥』という番組を見ていて、金魚すくいに使う道具を何と称するか、という問題を目にした時、「かみてぼ」という言葉が浮かんできた。正解は「ポイキャッチ」あるいは「ポイ」ということであったが、これは今まで聞いたことがなかった(「ポイ」は1997.8.12の20:00-のNHK総合TVでも出てきた。)。
私自身は「てぼ」という言葉が何を意味するのか思い出せなかったけれども、「かみてぼ」が出てきたのだ。多分私の個人言語ではなく、これまでに耳にしたことがある言葉なのだろう。調べてみると「てぼ」は、ザルやビクの意味で九州など西日本に分布している。だれかの個人言語、あるいは臨時一語を受け継いでいるだけかも知れない。
「かみたも」という言葉も後になって浮かんできたが、どうもこれはわざとらしい、というか人工語的な感じがする。「たも」は魚をすくう網である。
【ふざけとう】
福岡で「海の中道海浜公園」とかいう所に子供を連れて行った時、若者が「あいつ、ふざけとうけん」と言っているのが聞えた。この言い方はとても懐かしい思いがした。
この「ふざけとう」は〈ふざけている〉というよりも〈生意気だ〉とかいう感じである。「ふざけんじゃねえよ」とか「ふざけた話だ」の「ふざける」と意味は近いのだが、「あいつ、ふざけてるから」とは言えないように思う。
「横着」(オーチャッカ・オーチャクイ)というのも〈生意気〉というような意味だが、この「横着」も、〈怠け者だ・手抜きだ〉という意味で使うことが多い地方と、〈生意気だ〉という意味で使うことが多い地方がありそうである。
この九重研修所はすぐ近くに地熱発電所がある。湯気モクモクであるが、原発とは違って近くにいても気にならない。もし何かあってもそれは火山のというか地球の所為なのだから仕方なかろう。こうした発電所がもっと沢山あってよさそうに思うのだが。佐藤さんの風力発電や太陽光発電、子供の頃に読んだ海水発電なんて今でも開発が進んでいるのだろうか。「文化生活を送る為には原子力発電が必要です」というような話を聞くと、九重の地熱発電所を思い出すのである。ついでに言えば「起るはずのない事故が起ってしまった」というようなコメントを聞くと「日本ではチェルノブイリの様な事故は起り得ません」という言い方を思い出す(逆もある)。
さて、この九重合宿でのある人の配布資料に「個ゞ」という表記があった。「個々」の意味で「コゴ」と読むのであろう。私はこれを「ココ」と読むのであるが、以前からこれを「コゴ」と読む人がいるのが気になっていた。
並列の場合、後が濁る理由ははっきりしないが、「人々(ヒトビト)」「端々(ハシバシ)」「先々(さきざき)」のように濁ることはある。
「個々」と同じ様な意味をもつ「一つ一つ」「一人一人」も、私は「ひとつひとつ」「ひとりひとり」と読むが、これも「ひとつびとつ」「ひとりびとり」と読む人がある。gooなどで検索してもいくつかひっかかる。日本語学者の亀井孝氏などもそう書いていたと記憶する。「個々」は漢字に埋れてしまうだけに連濁するか否かは分りにくいわけだが。
みなさんはどうです?
【古豪】
新聞・放送で高校野球の京都の平安高校などは「古豪」と呼ばれるが、この「古豪」という言葉、高校野球界以外ではあまり見かけないような気がする。せいぜいアマチュアスポーツ、あるいはアマチュアのコンクール関係でも使われるかもしれないが、それ以外の世界では使われなさそうだ。例えば「古豪タイガース」とか「古豪パンナム」「古豪にしきのあきら」とかは言いそうにない。
高校野球の場合を見ると、「古豪」は「伝統校」とは意味が違う。〈伝統がある〉という他に、「古豪」の場合は、〈最近は強くないが〉という意味があるようである。「古豪」といえば必ずといっていいほど「復活」という言葉があとに続く。
語史的に見ると「古豪」は古くない。『日本国語大辞典』に用例はなく、ざっと見ると『明解国語辞典』の改訂版に立項されるのが古いところである。
古い新聞のスポーツ欄を中心に見て行けば用例が見つかるのではないかと思って見てみると、福井大学図書館ではいちばん古い昭和13年8月の朝日新聞ですぐに見つかった。陸上競技の記事であった。〈ベテラン〉という感じの意味合いか。〈最近は弱い〉という意味はなさそうだ。
【のみがら】
先日、「吹殻」で触れて、「なさそうだ」と書いた「のみがら」であるが、あるというご教示を佐藤さんから頂いた。漱石の「一夜」である。CD-romの『新潮文庫 明治の文豪』に入っているのだが、この『明治の文豪』には、一部テキストファイルが入れられている。これは有り難かったが、『大正の文豪』ではそれはなかった。*.ebkファイルを無理やりエディタに放り込んで、前の方と後の方を消せば、テキストファイルもどきが作れるのだが、制御文字をちゃんと取除いておかないと検索をファイルの途中でやめることがあるし、取除きすぎるとJIS外の字を使っている所が分らなくなってしまうのである。『新潮の百冊』では、本文が別の所に収められていたのだが、これを解読するソフトがNIFTYのfbungakuにあった。
しかしこれらのファイルの検索をちゃんと出来るように環境を整えたいのだが、現有のものでは難しそうだ。古い98ノートは拡張が困難だし、Macは便利なんだけど、Vz-editorを常駐させたMS-DOSが一番使い慣れている。DOSはgrep類が多彩だし。私もWindowsはいらない、DOSでよい、と思っているのだが、ディスク容量だけは沢山欲しい。だからINTERTOPとかでは駄目なのだ。
煎餅 せんぺいとある。
芳賀綏『失語の時代』教育出版(1976.1.20)p87「清濁日本地図」には、センペイではないが、
飛んで九州へ行くと、よそで濁るところを、清んで言う例が目立つ。「ナカシマさんがジンシャに行きよるごとあったが」は「中島さんが神社に……」の意味だ。「看板」がカンパンと半濁音になるのも、九州、とくにその北部に強い濁音回避傾向の現れだろう。とある。
ジャンパーのことをジャンバーという人は全国的に多いと思うが、これはオーバーからの連想か。
「おもんぱかる」を「おもんばかる」と言うことがあるが、これは「おもんぱかる」は口頭語ではないので、音声的変種ではなく誤読によるものとも考え得る。一方、パピプペポが〈俗な音〉〈外来的な音〉という意識もあるために、古語的で和語らしいな「おもんぱかる」にパピプペポが含まれることを避けたかとも考えられる。「何人」が「なんぴと」でなく「なんびと」と読まれるのも似たものだ。
話を膨らまして行けば、「連濁」と「連半濁?」、「半濁」とは何ぞや、といった問題にまで発展する。これ、ずっと関心を持っていることなのだけども、ちょっと大変。
(4)小書きにした「や、ゆ、よ、つ」は、タイプ又は印刷の配字の上では一文字分として取り扱うものとし、(注)に示すように、上下の中心に置き、右端を上下の字の線にそろえる。とある。光村図書の国語教科書などに見える〈右上四分の一〉とは全く違うものだ。手書きと「タイプ又は印刷」という違いは有るが、どうも〈右上四分の一〉の根拠の無さが思われる。