【ホンコンとキングコング】
今話題の香港だが、hongkongとkingkongが何故ホンコン・キングコングと写されるのか、という疑問がある。ホングコング・キンコンとならないのは何故かというわけである。ピンポン、ヤングソングなどと共に語られることもある。"HANG TEN"はハンテンかハングテンか、ということもちょっと関係ある。
香港の北京音がxiangkang(シャンカン)であることから、ホンコンというのは英語である、などと書いてある本を見て驚いたことがあるが、これは「香港」の広東音である。「香」と「港」ではちょっと母音が違うのだが、これは本題ではない。
子音、といっても摩擦音や接近音は問題になりにくいのだが、破裂音(閉鎖音と言った方がよいか)と鼻音が口のどこかで閉鎖を作ることを考えてみると、〈開放している状態から閉鎖する瞬間〉と〈閉鎖した状態から開放する瞬間〉というのが重要であることがわかる。勿論〈閉鎖した状態〉というのもあるわけだが、これは聴覚的には全く重要ではないと思われる。〈閉鎖する瞬間〉を「内破」と呼び(「入破」とも言う、と書いてある本もあるが、「入破」は別の音を示す言葉として使われているので使わない方がよい)、〈開放する瞬間〉を「外破」と呼ぶ。
子音の後に母音が来る場合には必ず外破を伴うわけだが、子音が来たり語尾である場合は外破がないこともありうる。英語などは外破があるのが普通である。語尾を例に取れば cat , cap , pack などの無声子音は勿論 sad , tab , bag などの有声子音もそうだ。can , ram , song などの鼻音の場合は、外破が弱い場合もあるが、丁寧な発音では、キャンヌッ、ランムッ、ソングッ、という感じで外破がきかれる。歌唱の場合などははっきり聞える。子音が後続する際についてみると、調音位置が同じ場合には外破がないが(日本の促音も同じ感じ)、調音位置が異なる場合には外破が聞かれる。例えば dictionary の c は後に t が来ているが、c と t の間に気流が出る瞬間がある(川上蓁氏に依ればこれは「無声母音」だというのだが)。
ところが例えば朝鮮語の場合などはこの子音連続の場合の前の子音の外破はなされないことが多いようだ。ipta などと言う時に、p は破裂せずに t へ移行する感じである。語尾の場合もそうで、あまり外破はきかれない。
中国語の場合も朝鮮語に近いようで、後続が母音でない場合にはあまり外破することが無い。「後続が母音」といっても、韻尾が子音で次の音節が頭子音の無いものの場合、つまり、 lian'ai のような時には外破が無い(つまりリエゾンが無い)。これは朝鮮語とは異なる(ngの場合にはリエゾンすることもあるようだが)。
さて香港だが、外破しない中国語で考えると、ホングコングではあり得ない。ホンコンである。英語ではどうか。丁寧に発音すればホンコングであろう。最初の ng は後続の k と調音位置が同じなので外破を伴わない。でホンコングである。ま、外破がはっきり聞えないで、ホンコンと聞えることもあるのでしょうが。
ではキングコングは何? これはキングが一語であるという意識があるのでしょうね。
東京帝國大學助教授 橋本進吉氏あと、子供向けの郷土偉人伝記集『若越山脈第六集』(s60.1)というのに佐藤茂「橋本進吉(国語の研究に一生をささげた)」というのが載っている。墓は敦賀市松島の來迎寺。敦賀西小学校に顕彰碑があり、それが建てられた時の小冊子もある。
文學士として學界に令名を馳せ數多の書物を著して社會教育界に偉大なる貢獻を爲せし氏は敦賀市晴明の出身にして明治十五年十二月を以って生れ橋本謙吉氏の長男たり。幼より頭腦明晰にして成績常に群を拔きしが長ずるに及びて京都府立第一中學校に學び第三高等學校を卒へて東京帝國大學文科大學文學科に進み刻苦研鑽の後明治卅九年七月優秀の成績を以って是を卒業せり。同四十一年文部省國語調査委員會補助委員たりしが翌四十二年三月文科大學の助手に拔擢され大正拾五年より其才幹を認められ助教授に擧げられ專ら國語科の講座を擔任して今日に至る。氏は言語學界の小壯者として夙に驍名を馳せ上田萬年博士と共に「古本節用集の研究」(文科大學紀要第二)を著し、亦佐々木信綱博士と共に、「萬葉集」の校訂に從事し、校本「萬葉集」を編纂し竝に「南京遺文」(「遣」に作る)及び「南京遺芳」(「遣」に作る)の著あり。亦「切支丹教義の研究(東洋文庫論叢第九)の名著あり。氏は資正清楚高雅にして殊に國文學の造詣深く斯業の發展上に貢獻する所甚だ多く其著書は不朽の名著と燦たる異彩を放ち廣く世人の賞讚する所たり。夫人正子(三十四歳)との間に長女春枝(九歳)長男研一(六歳)二女弘子(三歳)の一男二孃あり。(本郷駒込淺嘉町六十三番地)
文献を扱う人間にとってはコピーを例に取るよりも写本を考えた方がよい、と思い、この説に大いに納得が行った。
ある本を人が写せば、まず誤写(写し間違え)がある。それを更に写すと、新しい誤写が生じるし、場合によっては既にある誤写部分を勝手にねじまげて解釈し、本来の形とは似ても似つかぬものにしてしまうこともある。伝言ゲームと似ているとも言える。
時代が下ると原本が失われてしまうことが多いので、原本の姿を推定するためにいろんんは写本を集めてきて比較する。これを「校合」と呼ぶ。いろんな写本を比較検討して行くと、原本ではこうではなかったろうか、という推定が行いやすくなる。一つの本だけをじっと見ていてもわからないことが複数の本を突き合わせることによってわかるのである。両性生殖が単性生殖に比べて、遺伝子情報を正確に伝えやすい、というのも素直に頷ける。「交合は校合なり」というのはそういう意味である。
実は「校合」は「キョウゴウ」と読むのが正しいとされている、伝統にしたがっている。「コウゴウ」と読むと「それでは別の意味になります」と橋本進吉博士は静かにおっしゃったそうだが(出典失念)、この二つは通じていたのだ。先程は、小松氏の説明に「大いに納得が行った」と書いたが、本当は感動してしまったのだった。
写本にはいろんな系列がある。原本から写したA本とB本があり、A本を写したC本とD本があり、B本を写したE本とF本があり、原本A本B本が残ってないとする。その場合、C本とD本を、あるいはE本とF本を比較するよりも、(C本かD本)と(E本かF本)とを比較する方が原本の姿を復元しやすい。はやく言えば兄弟姉妹を突き合わせるよりも、血縁が遠い関係のものを突き合わせる方がよい、というわけである。
校合の場合はなるべく多くの写本を参考にするわけだが、交合の場合は2つを選ばなければならないわけだから、あまりに近い関係のものを選んでは比較する意味が無くなってしまうのだ。近親相姦に対するタブーというのもこれで理解できる。
血縁が近い関係の子供から天才的な子供が生れることがあるとも聞くが、これも、一般的な校合であれば「存疑」となるところが、近い関係の物で対照したために「これで決定」となってしまい、それが旨く行った場合には天才的な才能を示す、と考えることが出来そうである。
大学の同級生が亡くなったのです。彼とは大学の国語学国文学研究室で一緒でした。私は国語学専攻、彼は近世文学専攻ということですが、これは卒論がそうだというだけのことで、ほぼ同じ講義を受け、同じ演習を取るのでした。私はそのまま大学院に進み、彼は自分の専攻をやるのにふさわしい別の大学院に行きました。連絡を取るのはたまにでしたが、彼の書いた論文を目にすると、ああ、やっているな、とコピーを取ったりしました。
彼はある大学内の研究所に就職しましたが、そこで出している文献目録を作る作業がかなり忙しかったようです。そうした雑務に追われながらも自分の研究もきちんとやっていました。また講義のない助手時代にも自主開講していたのだそうです。
ここのところ睡眠時間が短くなっていたそうですが、その日もいつものように十一時すぎに帰宅し、いつものように仮眠したそうです。いつもなら三四時間で起きる彼が起きないので、奥さんが五時ごろ様子を見たところ、もう冷たくなっていたのだそうです。
通夜、告別式と行ってきましたが、まだ信じられない思いです。メールソフトには彼のアドレスが残っていますし、貰ったメールも残っています。いろんな思いがあり、まだ平常心には戻れません。
また、同年齢の友人の死、しかも病弱とは思っていなかった人の死というのは、自分自身も死と隣り合わせに生きていることを感じさせる面も持っています。考えていることはちゃんと形にしておくべきだ、また自分にしか出来ないことを後世に残したい、ということを考えるようになりました。このページのありかたも変わるかもしれません。
【浴客】
海水浴に訪れる人のことをこう呼ぶらしい。今年の夏、福井新聞で二度、目にした。温泉とか銭湯ならすっと入るのだが。私の意識では「海水浴」は「浴」であるという気がしていないのだろう。《「海水浴場」を「浴場」では如何》
みなさんはどうです?