目についたことば

岡島昭浩
97.6.1-2
【倍】
 『新聞集成明治編年史2』の446頁に、明治8.12.5 東京日日新聞の記事として、
太政官記事。第百八十三号○自今公文中総て計算上一倍の呼称を止め、従前の諸規則等に一倍と記載有之分は、二倍と改正候条、此旨布告候事。
但譬ば原金高一円の二倍は二円十倍は十円と計算候儀と可心得事。明治八年十二月二日 太政大臣 三条実美 (原文片仮名)
というのが載っている。
 「人一倍」は「人並」のことか、と疑問を持つ人もいるが、「二倍」のことと解される。というか、「倍」が「二倍」の意味なのだということを考えると、「一倍」の方が素直な言い方となる。しかしこのやりかたで「二倍」となると、混乱しそうである。2の2倍は2+2+2=6なのか、それとも倍の倍、つまり2+2=4,4+4=8なのか。
 こうした混乱を避ける為の布告なのでしょう。あるいは西洋人との間の問題か。
97.6.3
【掘った芋その後】
 以前ふれた「ホッタイモイジルナ」であるが、城生佰太郎・松崎寛『日本語「らしさ」の言語学』(講談社1995.1.9)の表紙に「掘った芋・ホッタイモ・Hottaimo・What time?」と書いてあるので喜んで中を見てみると、
彼(ジョン万次郎)の書いた英語練習帳のWhat time is it now ? の傍らに、「ホッタイモイジルナ」とあるのだ。
として、さらに、
この本、単語「男子」の項を見ると、「ボヲヤ」と出ている。(中略)「女子」を見ると、「ゲロ」と書いてあったりして、
とあり、参考文献を、吉田正俊「女の子はゲロ」『言語』12-7)としている。
 これを見れば「ジョン万次郎の英語練習帳」が何であるのか分るであろうと、見てみると、これには、
安政年間に出た漂流記には「男子をボヲヤ、女子ゲロ」と記してあったそうです。
と、これまた伝聞で、しかもジョン万次郎とは書いていない。参考文献は大田雄三『英語と日本人』とのこと。これは講談社学術文庫に入っているので見てみたが、ボヲヤ・ゲロだけで「掘った芋」はなさそうだ。
 城生佰太郎『「ことばの科学」雑学事典』(日本実業出版社1994.12.30)のp164にも、ジョン万次郎の名と、私が先日触れたテレビ番組(1984.8.29の放映)、と思われるものに言及して、「掘ったイモいじるな」と書いてある。参考文献としてEmily V. Warinner(宮永孝訳)『ジョン万次郎漂流記』(雄勝堂1991)というのが挙っているが、これは多分、
フハヤ アー ユー ゴエン
などの出典ではないのかな。このワリナーという人のは、昭和41年に田中至という人も訳しているようだ。ジョン万といえば井伏鱒二だが、パラパラ見たところ「掘った芋」はなさそうだ。そういえば『中浜万次郎集成』とかいうのが確か有ったはずだ。あの図書館にあったんだがなあ。《見たけど載ってない》
 私はこれはほとんど「伝説」であると思っています。万次郎への仮託だと思っているわけです。
97.6.4-7
FAQ【現代仮名遣いで「地震」はなぜヂシンではないのか】
 現代仮名遣いでは、zi,zuの表記には、原則として「じ・ず」を用います。 「ぢ・づ」を用いるのは例外であって、これは「同音の連呼」と「二語の連合」 の場合に限られます。「同音の連呼」というのは、「ちぢむ/ちぢれる/ちぢこま る/つづみ/つづら/つづく/つづめる/つづる」といったものです。「二語の連合」 は所謂「連濁」で、「ち・つ」で始まる語が後部要素となって複合語となり、連 濁して出来たzi,zuは「ぢづ」で書こう、というものです。「はなぢ」などです。
 問題の「地震じしん」は以下の規則によります。
〔注意〕次のような語の中の「じ」「ず」は、漢字の音読みでもともと濁 っているものであって、上記(1)、(2)のいずれにもあたらず、「じ」「ず」 を用いて書く。 例 じめん(地面)/ぬのじ(布地)/ずが(図画)/りゃくず(略 図)
この「もともと濁っている」というのは、「連濁によるものではない」というこ とで、伝統的な言い方に従えば、「本濁」ということになります。漢字の漢音と 呉音には清濁の対立をなすものが沢山あります。
    漢音 呉音
  賀 カ  ガ
  才 サイ ザイ
  大 タイ ダイ
  伴 ハン バン
「地」の「チ・ヂ(ジ)」もこれに対応するものです。しかし、漢音と呉音の関 係には、これらのように清濁のみの対立、というものだけではありません。例え ば、
    漢音 呉音
  下 カ  ゲ
  成 セイ ジャウ(ジョウ)
  弟 テイ ダイ
  白 ハク ビャク
などがそうで、清濁の対立と、韻をどう写しているかの違いの両方が関連してい ます。「図」も「ト・ヅ(ズ)」で、この仲間です。
 「地」は「チ」だから「ヂ」で書こう、と定めると、この辺りの扱いがとても 大変になります。「直ジカに」はチョクだからヂだ、とか、ズサンのズは「杜」 であって「杜」にはトの音があるからヅと書かねばならん、とか、「頭痛」はト ウだからヅだ、などなど、いちいち考えなければ書けなくなります。考えて書け るのはまだよくて、「住」などは呉音ジュウは知っていても漢音がチュウなのか シュウなのか殆ど知られていません(常用漢字の音訓表にもはいっていませんし、 小さな漢和辞典では載せていないようです)。「主シュ」「柱チュウ」のように、 諧声符で判断することも出来ません(出来たとしてもなんと大変なことでしょ う)。
 現代仮名遣いの基本は表音であり、歴史的仮名遣いのような背後の知識をなる べく避けたい、というのが目的であるはずです。こうした目的を考えると、「地」 を「ヂ」と書くようにすると、書き手に漢字音の知識を要求することになってし まい、現代仮名遣いの趣旨から外れてしまうことになるわけです。
 漢字音ではありませんが、「むずかしい」も、「むつかしい」という語形を併 用する地域では「むづかしい」と書きたくなる、とかいうことはあります。しか しこれも現代仮名遣いの考えでは、ムツカシイと発音するときは「むつかしい」 と書き、ムズカシイと発音するときは、ムツカシイとは無関係に「むずかしい」 と書こう、というわけです。
6 この仮名遣いは,「ホオ・ホホ(頬)」「テキカク・テッカク(的確)」 のような発音にゆれのある語について,その発音をどちらかに決めようとす るものではない。
というのと関連すると思います。

 仮名遣い改訂の歴史を見て行くと、昭和十七年の仮名遣いでは、「地・治」に 限って「ヂ」としていたようです。どちらも常用音として「チ」がありますから、 〈清濁の対立のみの違い〉の時に限って認める、という立場なのでしょう

 なお余談ですが、漢音・呉音の対立を考慮に入れれば、字音仮名遣が覚えやす くなります。「*ョウ」は、「eイ」という音があれば「*ヤウ」である(漢音 エイ呉音ヤウ)とかです。ただ[漢音ダ行/呉音ナ行](女ヂョ/ニョ)、[漢 音ザ行/呉音ナ行](汝ジョ/ニョ)のようなものもあるので、この辺は覚える か、中国語の知識を援用するしかありません。pinyinでrになるのが[漢音ザ行 /呉音ナ行]、nになるのが、[漢音ダ行/呉音ナ行]です。

 今日はFAQですので、目新しいことはありません。


97.6.8
【FAQ:十本はジュッポンかジッポンか】
 「立リツ」「執シツ」「集解シッカイ」「急度キット」という音があり、「建 立コンリュウ」「執シュウ」「集シュウ」「急キュウ」という音があります。 「十」の「ジュウ」という読みと「十本ジッポン」という読みの関係はこれらと 同じものです。つまり、「十」は「ジュッ」という読みでなく、「ジッ」という 読みの方が、規範的だということになります。これらは字音仮名遣いで書けば 「フ」で書かれる(古代の中国語では-p)、「立リフ」「執シフ」「集シフ」 「急キフ」「十ジフ」というものでした。これら「フ」は普通にはそのままウで 発音されるようになるのですが、後に続いて行く場合に促音化することがあった ようなのです。「法度ハット」「法華ホッケ」「摂津セッツ」「接着セッチャク」 などもそうです(「摂」「接」はセフの読みは常用音からは消えてしまいまし たが、「摂」は仏教語を、「接」は「妾」の読みを思い出せば納得が行くのでは ないでしょうか)。
 ともかく「十本・十個」は「ジッポン・ジッコ」が規範であるわけですが、た だ、ややこしいことに、ジとジュ(シとシュ)は音が近くて混用されがちです。 特に東京のことばではこれが混用され、新宿がシンジクと発音されることも多い ようです。「十ジッ」の場合は一方に「十ジュウ」という音を持っている為に、 「ジュッ」に引きつけられやすいのでしょう。それで「ジュッ」という音を認め ざるをえないようになったわけだと思います。ただ数としての「十」を「ジュッ」 とよむのを認めた人でも、「十手」などはジッテという音形と結び付いているた めに、これをジュッテと読むと気持ち悪がるわけです。

《補》
 「十」がジュウの影響を受けて「ジュッ」になるなら他のものはどうなのだ、 ということで言えば、「執」を「シュッ」と読んだ例はあまり見かけませんが、 「集解」にシュッカイという仮名を付けている本を見たことがあります(現代の、 共通語で書かれた本です)。

 また、シとシュ、ジとジュの混同は古くからあって、「しんとく丸」と「しゅ んとく丸」などは有名だと思います。
 我が同僚、小川栄一「シとシュの交替」『国語国文学』(福井大学)24(1984)というのもあります。

 今日もFAQですので、目新しいことはありません。ただ「シシュ」に関する論著は多いのですが(「東京訛り」ということなどで)、「十」の読みをそれに結び付けて説明してあることは少ないようにも思います


97.6.9-11
【アクセントとイントネーション】
 結局、見逃し(聞き逃し)てしまった。NHKの人間大学『日本人と西洋音楽』、團伊玖磨氏のであるが、その第8回(5/29,6/2)は聞きたいと思っていた。山田耕筰に関することなのだが、山田耕筰は日本語のアクセントをメロディーに反映させるべきだという考えの作曲家として知られている。テキストの中で、團氏は、
日本語の高低について、よくアクセントといいますが、これは強弱のことで、イントネーションというのがほんとうでしょう。
と書いている。これを放送の時にもいうかどうかを確かめたいと思っていたのである。

 金田一春彦氏は、若い頃音楽家を目指したことでも知られる(テレビで、氏が歌い夫人が踊る、ということも嘗てあった)が、氏の幅広い日本語研究の中でも本領はアクセント研究である。金田一氏の論文に「高さのアクセントはアクセントにあらず」というのがある。
 日本語のような高さアクセントは、英語やドイツ語などの強さアクセントと異なるところが多い、という論である。例えば、強さアクセントでは、一つの語に付き強い部分は1ヶ所であるのだが(副アクセントというのは有るが)、高さアクセントの場合は高い部分が何音節にもわたって連続する。例えば関西アクセントなどは、「えんのしたのまい」という語が全部高い(牧村史陽『大阪ことば事典』(講談社学術文庫)による)。なお、豊島正之氏は「濁音法則」(『三省堂ぶっくれっと』971992.3.1)において、

「ストレスアクセント」を、「高さ」pitchに対する「強さ」intensityによるアクセントとする誤解が絶えないが、本来、一単位中の注目(「卓立」)点が一つに限られるアクセントを指すのであり、ストレスアクセントの「卓立」自体は、英語のようにピッチにより行われる方がむしろ普通である。
と説明している。

 高さのアクセントが英語やドイツ語のアクセントと違うからといって、團氏の様にいきなり「イントネーションというのがほんとう」というのはあんまりでしょう。イントネーションというのは、語ではなく文にかかるもの、知的な意味の区別ではなく情的なもの、言語が異なっても有る程度の共通性を有するもの、です。
 日本語の多くの地域で、イントネーションはアクセントよりも弱いものだと見られます。つまり、アクセントが実現してから、イントネーションが顕在化する、ということです、東京アクセントで「雨?」と聞くときには、アからメに音が下がった後に、質問調の上昇イントネーションが聞えてくるわけです。「飴」とのアクセントの違いは保たれているのです。文が長い場合もそうで、英語などの疑問文の様に文の最初からダララダッと上昇して行くのではなく、文の最後に上昇調が現われるわけです。
 ところが日本も広くて、無アクセント地帯と言われるここ福井では、自転車に乗った二人連れの西洋人のいう「あなたは神を信じますか」式のイントネーションに似た言い方が観察されます。またアクセントのある地域であるわが故郷福岡でも、wh-questionの場合には、アクセントを打消して、文頭からの徐々なる上昇が実現します。「なんばきさんこげなところでてれてれしよーとや」というような文が文頭からダラダラと上昇して行きます。


 昨日は、福井県営球場で行われたロッテ・ダイエー戦を見に行った。家族四人で野球を見に行くのは始めてである。内野席の入口を横目に見ながら外野席入口に向かう。子供を抱えてようやく外野席入口にたどり着くと、なんとここでは券を売っていない。内野席入口の所で買うのだという。そやったらちゃんとあそこに書いとけ、っちゅうんじゃ。「券売場はここだけ」とかな。車を駐めるのに手間取り、試合はとうに始まっているので、お父さんとしては走って券を買いに行くしかない。

 評判の小坂を見た。あの体でショートからファーストに投げるのだから大変そう。
 秋山は情けない。無気力な感さえある。バッティングもそうだが守備もだ。前で取ったのを二塁にまでやってしまう。三振も気のないスイングである。あまりに情けないので「こらーっ、あきやまー、なんばてれーっとしとうか」と、福岡風に声を掛けようかと思ったが、7回の凡退で意を決したときにはセンターの守備は交替してしまった。
 福岡のテレビ局であるTVQというのも来ていたが、誰が解説で入っていたんだろうか。《基かな》


97.6.12-19
【コピー】
 身辺あわただしく、また風邪までひいてしまった。
 身辺があわただしいときには落ちついて勉学に励めず、単純作業に向ったりする。文献のコピーなどはその最たるものである。増え続けるコピーの山に対処すべく、これからはスキャナで読み取ってMOに保存だ、と思い、しばらくやってみたのだが、やはり紙コピーの方がよいようだ。
 しかし、スペース節約の為に両面コピーとする。半分に折るのは諦めるわけだ。どうせ本棚では本が寝ているのだから、コピーだって寝かせて置けばよい。さらにA4原稿が横置きであるのが性に合わず、縦置きにしてB5に縮小することにする。10年後ぐらいには老眼になるであろうが、この際仕方ない。
 スキャナ読み取りの場合は、自分の部屋で出来るので気楽だし、順番待ちなどの心配もなく、また、座ったままやれる。しかし問題はスピードである。紙へのコピーの場合にはかなりのスピードで精度も高い。ところがスキャナの場合は、600dpiにしようものならおはなしにならないし、200dpiでもけっこう遅い。それ以上解像度を落すと、まあ活字の論文ならばそれでもよいのだが、古いものをやる場合にはちょっと困る。
 古いものはやはり写真に取るのが良いのであろうか。普通のカメラで写したりするのは腰などに負担が懸かりそうで、マイクロ撮影器があったら便利だろうな、と思うのだが、ああいうのは高いだろうね。そうそう、マイクロフィルムと言えば、フィルムスキャナで読み取れるのだろうと思ったら、あれって、普通のフィルムの六枚切りにしたやつとスライドとにしか対応してないのかな。ロールフィルムのことは考えていないのか。高級品なら対応するのだろうか。マイクロフィッシュなら普通のスキャナに透過原稿ユニットとやらをつけて読み込めばある程度までは行けるのだろうが(かなり高い解像度を必要としそう)、マイクロフィルムはやりにくそう。(実は透過原稿ユニットをつけなくてもある程度は読めて、マイクロフィルムを読み込んでみたのだが、昆布みたいになって大変だった。)
 フジックスのFVは、ロールフィルムにも対応していて有難かったのだが(天地がすこし切れるか)、テレビ画面をパソコンに取込むやつがえらく解像度が低くてちょっと使えなかった。
97.6.20-21
 風邪の具合は結構辛い状態。喉と足腰が痛く、頭もフラフラ。病院では久しぶりに尻への注射。五年前に中国では打ってもらったが、日本では大人になって初めてだと思う。いや、違ったか。中国に行く前に肝炎の予防注射を受けたが(自発的に)、尻にではなかったか。さて、薬を飲むとまた頭がふらふらになる。同じ「ふらふら」ということばしか使えないがさっきのとは別の状態。脱力状態だ。薬の切れかかる夕方にパソコンに向う。
【旧派閥】
 数日前のNHKニュースによれば、橋本首相は「旧小淵派に属している」のだそうである、「属していた」ではなく。
 しかし「旧小淵派に属していた」ってのも少しおかしい。「もと、小淵派に属していた」とでもあればよいか。しかしこういうと小淵派から脱退したように見える。「派閥があったころには小淵派に属していた」とでもせざるをえないか。「そして今でも……」(あべ静江の口調で?)
 こう考えるに、先年、自民党が「派閥解消」を行う、というニュースを流していたのは一体なんだったのだ、と思う。消えたのは派閥ではなく、派閥の呼び名だった、ということか。いや、派閥の呼び名をその時の領袖の姓で呼ぶ習慣の消失、ということであろうか。
 いずれにせよ、いくら自民党が派閥解消をうたっても、結局それは単なるうたい文句に過ぎず、しばらくすると、また派閥が表面化してきて、マスコミも「〜派」というようになる。これは既に繰り返されたことである。
 先年の「派閥解消」のニュースの時、これまでの「派閥解消(と復活)」の歴史をどこかでとりあげないか、と思ったのだが、目にしなかった。あるいはこれまでの「派閥解消」とは、ここが違うから今度はちゃんと派閥は解消する、というニュースでもよいのだが、それもなく、「派閥が解消することになり目出度い目出度い」というような、お目出たいニュースしか目に出来なかった。本当にマスコミの忘れっぽさには呆れてしまう。
 今度の「派閥解消」も、いずれ「小淵って誰」という状況になれば、またマスコミが新しい派閥名を付けて差上げるのであろう。
97.6.22
【振替・振込・払込、更に小包・宅配便】
 お金を払う場合、それが銀行の口座であるのは余り嬉しくない。手数料が高いからだ。あれは高すぎる。都市銀行に比べると地方銀行は一段と高いようである。しかも機械に依る振込を扱っているのがごく一部の店舗と来ているから、数千円送るのに、すぐ630円ぐらいの手数料を請求されることになる。
 制度上作れないような場合は別として、人からお金を送ってもらおうと考えているのであれば、なぜ郵便局の振替口座を作らないのだろうか。
 私は郵便局の振替口座を持っている。これは別に人にお金を送ってもらおうという考えで持っているのではなく、古本屋など通販で買ったものの代金を安く送金するためである。銀行に比べれば随分安いといえる郵便振替口座への払込であったが、数年前の値上げ後は、1万円以下なら60円、それを越すと10万円まで110円もする。これが自分の口座から他の口座への振り替えということになると、わずか15円である。電信にしても130円。安いではないか。自分の口座へ払込むのは指定した郵便局からであれば無料なのだから、これを使わない手はない。
 このように安い送金料を知ってしまうと、シェアウェアなどでも、送金先が銀行口座になっていると、送る気力が失せてしまう。お金が送って欲しかったら、やはり郵便局の振替口座を、と言いたい。開設無料、維持費も無料。振込まれたらちゃんと連絡がある、通信欄も付いてくる。銀行だといちいち付け込みに行かないといけないし、振込人の名前しか分らないのに。

 思い出したのだが、先日いくつかの新聞に、悪徳通販のことが載っていた。注文していないものを代金引き替え郵便で送りつけ、代金をせしめるというのだ。しかしその対策についての説明が変だった。一旦お金を払ってしまうと、相手方の住所など分らない場合が多く泣き寝入りになるケースもある、というのである。これはおかしいのではないか。もしそうだとしたら、郵便局側のおそるべき怠慢か、あるいはいきすぎた「プライバシー保護」であろう。お金の引渡しの仲介者として連絡先を教えるべきであろう。しかしあれかな。振替口座ならちゃんとした住所を書いていないと振込通知が貯金センターに送り返されてしまうので嘘の住所だということが分るわけだが、貯金口座の場合は銀行と同様で振込通知をしていないのかな。いずれにせよ、虚偽の住所届けをしている口座に金を払込む手続をするのはちょっと許せない。ついでにいおう、民営化も反対。貯金業務は別だけど。
 しかし、この代金引換郵便、今のままではいかんだろう。配達する人もいやいややってる感じ。お釣り用の小銭を持っていないのには驚いた。

 民間と郵政省との比較になるが、小包が宅配便に勝っている所は引越しのあとの転送制度。それから留守の時の手当の仕方。これは宅配の下請業者に依ってまちまちなのだが、ひどい業者もある。ずっと以前の実家に居た頃のことだが、玄関に駐めていたバイクに久しぶりで乗ろうと覆いを取ってみたら中から宅配便が出てきた。また結婚してからだが、長い不在から戻ってきたら不在時配達のメモが入っている。しかし差出人の所は空欄になっていて誰からのものか分らない。宅配業者に電話を入れてみると既に送り返しているという。では差出人は誰かと問うと、それは控えていない、と答える。「折角お送り頂いたのに留守にしていて申し訳ありません」という挨拶をしたくても出来ないではないか。差出人に対して不義理を働かせて平気なのであろうか。こういうのは郵便法か何かの取決めはないのか。
 法律上の取決めといえば、小包の中に手紙を入れてはいけない、というのは、別に郵便局が"いけず"をしているのではなく、法律上のきまりによるもので、宅配便であろうと中に手紙を入れるのは法律違反であるはずなのだが、宅配便では利用者に対してそういう注意は行っていない。これもちょっとずるいよね。


97.6.23-24
 asahi-netのppp接続可能なアクセスポイントがようやく福井にも出来た。これでFTPが使えるようになったわけだが結構面倒そうだ。一度やったのだが、なんだか旨くいかない。それで久しぶりにダイレクトにパソコン通信として繋いでアップロードする。ac.jpからのtelnetに比べると速い速い。でも日記猿人への更新登録はまたppp接続してからでないと駄目みたいだし。

【モーラとシラビーム】
 ATRにこんなページ(金水敏さん)があった。
 それで思い出したのだが、私の二歳になる息子は、歌を歌うときに、撥音を日本式に歌うのが難しいようで西洋風に歌うことがある。西洋風というのは、「ん」(つまりモーラ)に一つの音符を与えるのでなく、「*ん」(シラブル、音韻論では学術用語風にemeを付けてシラビームという。何故「シラブリーム」でないのかは知らない)に一つの音符を与えるやり方である。
 たとえば、NHK教育TVでやっている、ディックブルーナの絵本の番組のテーマソングに、「みんなで」という歌詞があり、「ミ・ン・ナ・デ」と歌われているのだが、うちの息子は「ミ・イン・ナ・デ」と歌うのである。しかし「絵本の」の部分はちゃんと「エ・ホ・ン・ノ」と歌えるわけで、一体どうなっているのだろう、と考えてみると、メロディーの影響がありそうである。
 「絵本の」のホとンは音の高さが同じなのだが、「みんなで」のミからンに掛けては6度も音が上がる(勿論6回という意味ではなく、音程の話)。高い音を出すには肺からの気流が強い方がよい。これはカラオケで叫ばなければ高い音が出ない、という事実からも知れよう。さて、鼻は口に比べて空気の通り道が狭いために、ンは母音に比べると高い音が出しにくいのである。ところが高い音も一旦出てしまうと少し気流が弱まっても出し続けることが出来る。いきなりンで高い音は出なくてもインとすれば楽に出せるというわけである。

 シラブルに1音符を当てたものとしては、賛美歌が知られていますね。

 ビーフン(米粉)をラーメンの様に(ちょっと違うかな)して食べる「汁ビーフン」というのがある。この名を初めて聞いたのは、既に「シラビーム」という用語を知っていた時だった。お陰でとても愉快な名に思えた。


97.6.25
治ったと思った風邪がまた? ともかく喉がおかしい。気を付けないと。

【浜茶屋と「海の家」】
 海水浴の時に、浜に休憩所が出来る。有料の、というのもあるのだろうが、食事などをそこでして、というやつだ。これは「海の家」と呼ぶものだと思っていた。ところがローカルニュースを見ていて、〈海水浴場で浜茶屋の設置はじまる〉という言い方に出会った。
 『日本国語大辞典』によれば、「浜茶屋」は江戸時代から使われていて、江戸時代の意味は違うようであるが(海浜ではなく川岸のようだ)、『三省堂国語辞典』の四版には「海の家」のような意味が載っている。
 とりあえずその辺りまで確認して学校に行くと、文部省共済組合福井大学支部からのお知らせが入っていて、映画などの優待に加えて、「海の家」の優待も記してあった。ここでは普通名詞としては「海の家」を用いているのだが、店名は「〜〜浜茶屋」であった。
 「海の家」の使用に気をよくして『日本国語大辞典』を引いてみるとちゃんと載っていた。夏の季語だそうだ。よく見てみると、休憩所のようなものでなく、単なる有料の着替場所(よしずばりなどの)をも、「海の家」と呼ぶことも有るようなのだ。だとすると「浜茶屋」の言い方をしたい気持ちもわかる。「食事も出来る」ということを示しているわけだ。

 はて、琵琶湖の水泳場(さすがに「湖水浴場」とは言っていなかった)ではなんと呼んでいたろう。住んでいた所から水泳場まで歩いて五分ぐらいだったからそうした場所を利用しなかったし、真野水泳場では、夏だけ建物を作る、という感じでなく、湖畔の旅館が拡大する、という感じだったから意識しなかったのだ。
《ハマチャヤとハマジャヤと両方あるようである。また、京都の日本海側にも「浜茶屋」があるのを見た。》


97.6.26-27
【東日本と西日本】
 天気予報(「気象情報」だっけ)で、「東日本と西日本では……」というようなことを言っていたので、オヤと思い聞いていると、「北日本では……」と続いた。
 日本を二つに分けた時も東日本・西日本なのだが、そうでなく、西日本と呼ぶことがあるわけだ。この「西日本」という語については柴田武『生きている方言』(講談社学術文庫『生きている日本語』)でも触れられているが、いろんな範囲を示す。西日本(にしにっぽん)新聞は福岡にあって、九州山口をカバーする(つもりで居る)。毎日新聞西部本社もたしか同じ範囲だ。朝日新聞西部本社は島根も入るんじゃなかったかな。西日本新聞の関係であるのはTNCテレビ西日本(にしにっぽん)。よく似た名前の西日本放送は香川高松。こっちは「にしにほん」ではなかったか。
 バス保有台数では日本一だが、鉄道が短いために大手私鉄に入れてもらえなかったりする西鉄は西日本鉄道。鉄道は福岡県のみ。JR鹿児島本線は佐賀を通っているが、西鉄大牟田線は佐賀県を避けるように走っている。バスは九州各地へ走っているし高速バスは東京や金沢にも行っている(福井にも止ってくれんかねぇ)。そういえば大阪西鉄観光とか言うバス会社もあった。
 西日本銀行は、相互銀行としては大きく、他の相互銀行に先駆けて普通銀行となった。本店は福岡。
 私が卒業した西日本自動車学校、福岡市郊外《「ウキコドライバーズスクール博多の森」などと改称していた。》。また私が属していた学会に西日本国語国文学会がある。九州山口の国語国文学者の学会、これについては柴田氏も書いている。
 「西日本一の大型電気専門店ベスト電器」というのはやはり九州山口なんだろうな。聞いていた時分(「カジノスマッシュ」だったかな、ともかくスマッシュ11。これ、ローカルねたです)は大阪あたりを含めた西日本一だとおもって聞いていたのだが。
 西日本が九州を指す、というのは、伝統的な言い方の「西国」を想起する。

 JR西日本は、大阪に本社が。他にも京阪神に「西日本……」という会社がいろいろありそう。サーチエンジンで検索しても面白そう。東限はどこか、とかね。でも出稼ぎ型もあるかも。「九州石油」や「クリーニングの九州化学」は九州以外にもあるもんね。《支店が九州以外にあっても仕方ないのだ。》
《滋賀には「西日本……」という会社があった。》


97.6.28
 今日は妻子を観劇に送り出したついでに、土曜日としては珍しく学校に行き、失敗してしまった。研究室の鍵を含めて、車の鍵、家の鍵、などなど全て研究室内にとじ込めてしまったのだ。ボタンを押すだけで締めることが出来る鍵は、便利なようでこういう時に困る。平日であれば事務で鍵を借りることが出来るのだが、これが土曜日なので往生した。先日は車の鍵をとじ込めてしまったが、これはまあ車の鍵だけだったので〈その日は諦める〉という選択肢があったわけだが、今日の場合は、迎えに行かねば成らぬ妻子が自宅の鍵を持っているかどうかが不明だし、観劇中で連絡が取れないこともあってどうなることかと思った。幸い、親切な事務の人に連絡が付き、お休みの所を出てきてもらい、開けてもらうことが出来た。ありがたいありがたい。今後こういう馬鹿なことが無いように対策を講じなければならない。ドアのノブの所になにか目立つように書いておこうか。

【空高注意】
空高注意(4645bytes)
 踏切の前にこんなことが書いてある。「くうこう?」「そらたか?」「からたか?」。ともかく〈上につかえないように〉ということだろうが、何とよみ、厳密にはどういう意味なんだろう。「そらの高さに注意しろ」なのか、「カラの(見せかけの)高さがあるかもしれないから注意しろ」なのか。《ことば会議室へ》


97.6.29
 今日は金沢の古書市に行った。やや高めのものが多く、また五日目ということもあってか目ぼしいものがなく、あまり買わなかったが、ようやく買えたという思いの本が楳垣実『京言葉』である。「持ってなかったのか」と言われそうであるが、これまで持っていなかったのは10年以上前に買いのがした所為である。
 福岡の古書店の目録に『京言葉』が、1500円か1200円ぐらいで載っていた。これは買わねば、と思い電話を入れてみると、「一冊は売れてしまったのだが、たしかもう一冊在庫があったようにと思うので」と言われた。同時に注文した有坂秀世『国語音韻史の研究』が確保できたので(3000円ぐらいではなかったか、安い)、これを送る時に『京言葉』の在庫があれば一緒に送ることになるであろう、というのである。
 数日後、まだその店からの荷物が届かない時点で古書市が始まり初日に出かけた。博多駅前の井筒屋である。『京言葉』がある。値段はたしか例のものよりは少し高い程度、安いと感じる値であり、あれが完全なハズレであれば躊躇無く買ったことであろう。しかし悩みながらも書棚に戻した。でもやはり買っておこうかどうしようか、と悩みつつ他の本をみていたのだが、あとから来たらしい先輩に出会うと、その手には『京言葉』があった。
 数日後、例の古書店からの荷物にはお侘びの言葉が入っており、私と『京言葉』の縁は薄いものになってしまった。京都に引越してからは、郷土本としてか見掛けることは多いものの、やはり郷土本であり高い。最低3000円ぐらいはしていたのである。2500円ぐらいのを見掛けたこともあったように思うのだが、なんだか悔しくて買えずに居たのだ。
 今日も『京言葉』を見付け値段を見ると4000円以上の値が付いていた。「やはりね」と自嘲しながら見て行く。安めの本がならんでいる一角があった。ここを見ているとまた『京言葉』がある。1000円。初めて以前の値を下回る額のものに出会うことが出来た。頂きます。

【先週覚えた言い方―帳面づらをあわせる―】
 私は「帳尻を合わせる」という言い方しか使ったことがなかったが、こういう言い方を耳にして、オヤッと思い、「帳面面」という表記になるようで面白く思った。しかし、辞書を引いてみるとちゃんと載っている。「帳ヅラを合わせる」ということばもあるらしい。この場合の「帳面」は「帳簿」のことなのだろうか。
 「帳尻を合わせる」とは少し意味が違うようにも思う。「帳尻」の方は「終り良ければすべてよし」という感じだが、「帳面ヅラ」の方は、ぼろが出なけりゃそれでよし、という感じだろうか。


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