三十年前、著者の家の近くに湧きあふれていた井川の水はおいしい水で、(中略)今、コンクリートで封印されたこの井戸は、とある。「イガワ」は九州で広く、井戸を意味する。おそらく、水俣でもそうなのであろう。
いがわと「井の輪」の意としているが、やはり「井川」であろう。水がある所が「川」で、「井の川」なのであろう(結婚するまで私の本籍地は鹿児島県大島郡徳之島町井之川」というところだったが)。「井戸」は「ヰのト」で「ト」は所の意の「ト」であろうか。
井が輪也
いど井戸也
「井川」に対して普通の川のことを「流れ川」と呼ぶ、と聞いた記憶があるのだが、これも意識されにくいのか方言書にあまり登録されていないようだ。
なお、中国語の「琺瑯」は、『現代漢語外来詞詞典』によると、ペルシャ語のfarangというのから来ているという。
車の名前のホーミーと沖縄方言のホーミーについてコメントを下さった方もありました。同音衝突による忌避ですね。そういえば私もどこかで聞いたことがあります。〈ものしり方言〉系の本でだったと思います。ただ方言辞典の類で「ホー」は出てくるのですが(ホトのホでしょうかね)、ミーがよく分らないのです。「ホーマー」というのも載っているのですが。まあ、この系統の語は方言辞典類に掲載されにくいのでしょう。
車名の場合は会社の方針で変えたのでしょうが、こんな例もあります。中国語の「鳥」はniaoと読まれます。以前はdiao(tiao)だったはずです。日本語の「チョウ(テウ)」に対応する形ですね。これがniaoになったのは、男性自身を指す「吊」のdiaoを避ける為だと言われています。「尿」と同じになってもいいんですね。
「今夜、酒を飲まないかと、おたく(原文傍点)に伝えといてくれって、車で宿舎に迎えにくるそうだ」とある。時は太平洋戦争中、場所は「ニッポンゴヲマナボウ」という看板が出ている昭南島、シンガポールである。場所はこの際よい。この時代、こんなふうに相手を呼ぶ人が居ただろうか、いやしかし小林信彦のことだ、わざとこんな書き方をしてこの時代にこういう言い方があったことを伝えようとしているのではないか。
「おれひとりに?」
ところで、『新明解国語辞典』も『三省堂国語辞典』も、「いどむ」の第二義に、女性にせまる、無理に恋を仕掛ける、というような内容の意味を書いているが、現代語でも使うのだろうか。『日国大』を引くと、「お岩をいどむ」とある。人間が「を」をとるところなど、どうも現代語らしからぬ感じがする。
「〜をいどむ」といえば、「闘いをいどむ」のようなのを除くと、古語か、あるいは方言か、というところだろうか。作詞者は忘れたが、間宮芳生作曲の合唱曲『五つのピエタ』に、「海を挑んで」というのがあった。これは南部《青森岩手》あたりのことを題材にした歌であった。
さて、本題です。「タイヤをはく」とか「タイヤをはかせる」といいます。これは、「はく」が、〈下半身に付ける〉という意味を持っているところから、人間ならぬ自動車へも転用したものでしょう。高本條治さんの日本語学・国語学への招待でも引用されていましたが、城生佰太郎『音声学』にある「煙を吐いて」を「煙を履いて」と間違えたという話も、人間でなくても下半身に付けていれば「はく」と表現できるからこそでしょう。
ところが、北海道などでは、手袋をも「はく」と言います。靴下などからの類推でしょうか。ともかく「下半身」ということは失われているように見えます。さて、手袋を「はく」地方でもタイヤは履けるものでしょうか。
今、『新明解』を引くと、「下半身または手首から先」となっています。〈頭以外の末端〉というくくりかたになるのでしょうか。
2)というのを「カタカッコニ」と読み上げているのを聞いた。こんなのをどう音声化するのか、というのは面白い。たとえば「○に1」を私などは「マルイチ」と発音するのだが、「イチマル」と呼ぶ人《山形県人》が居たりして驚かされた。なんだか三味線の音でも聞えてきそうな気がする。「(1)」もイチカッコなどと読んだりするわけだ。これは「カッコトジル」のところで「カッコ」とよぶことになる。
そうそう、鍵括弧は「弧」じゃない、という指摘がある。それを言えば、山括弧もギュメも弧じゃないし、立派に「弧」なのは、丸括弧だけ。考えてみれば「丸括弧」てのも変な語だと言われそう。
こんな状況であったのに、何故「彩あや」が定着してしまったのだろうか。名乗(名前に使われる漢字の読み方)から、という気もする。名乗に変な読み方があるのは、「和かず」「光みつ」などというのを見ても分る。『大字典』は名乗も載せているが「彩」にアヤはなく、名乗専用の字典を見ても出てこない。どうなっているんだ。
ナイター(騎士(ナイト)ぶるきざな男)。いろんな言葉にerを付けて、「〜する人」という意味を表わすのはよくあることだ。「がんばる」に「er」を付けて「がんばりや」……、というのは違っていて、日英同源トンデモ論を展開するときに使えそうなネタ。
また、Wをダブリューではなく、ダブリュと発音することが多くなったように思うが。ニュースでよく出るWTOなど、「ダブリュティーオー」と読んでいる人が多いような気がする。夏樹静子だったと思うが、『Wの悲劇』もたしか「ダブリュのヒゲキ」と読まれていたのではなかったか。薬師丸ひろ子と三田佳子で映画になって、角川フィルムストーリ文庫に入っていたと思うが未確認。この話も劇中劇があったりしてやはり「ダブル」を意識していたはずだ。《womenであるというが》
「ダブル」に比べると「ダブリュー」では間延びした感じだが、「ダブル」だと無教養な感じがする、というので、「ダブリュ」と発音されるのではなかろうか。
ホームページの本来の意味は、ブラウザを立ち上げたときに表示されるページの意味だったのが、一般的なwwwページを指すようになっている、とよく言われる。だからホームページという言い方をしないで、「wwwページ」と言おうと思うのだが、しかしこの「wwwページ」、なんと発音しにくいことか。「ダブリューダブリューダブリューページ」、「ダブリュダブリュダブリュ」といおうとしても「ダビュダビュ」になったりして大変だ。口で言うときは「webページ」の方が簡単だが、これでは通じないこともあって辛い。
さて、ことばである。娘が「オタって何?」と聞く。「は? 何のオタ?」「オタフクのオタ! フクはフクランデルってことでしょ。」うむ、さすが我娘、語源に関心がある(というほどのこともないか)。お多福の面など知らないのだ。しかし私自身もお多福とおかめの関係はよく知らない。ひょっとこは火吹き男などだというのを聞いたことがあるが、おかめもおたふくもよく分らぬ。「多福」なんてのは宛字だろう。『日国大』の「語源説」欄をみると、『大言海』などで、フクはフクラムの意味として居るようである。たしかに、フックラという言葉もあることだし、あながち無理でもない。
いかん、娘の熱が上がってきた。
さて現代、「ほお」という言い方がどれぐらい使われているのか。これを調べるのは結構難しい。自分自身を内省すると「ほおづえ」などの複合語や、「〜がこける」という言い方の時は「ほお」と言いそうな感じだが、それ以外は「ほほ」といいそうだ。
他の人の使用に関してはじっと耳を澄ませるのみだ。歌は聞きやすくて良い。といっても中には、「冷たいほほほほっ! 拭ひてはげへよほー」(「グンナイベイビー」)というように分りにくいものもあるが。ともあれ、歌になった物は「ほほ」が殆どである。「ほほをつたう銀のしずく」「ほほにこぼれる涙の雨に」「ほほにキスして」「ほほを染めて今走り出す私」「あなたのほほで拭いているのよ」などなど、枚挙に暇がない。「女房が呼んでいる、ほーほー」というのは関係ない。
これにたいして、「ほお」は、今のところ記憶に残っているのは1曲のみ。尾崎和行とコースタルシティの「洋子」の「伝わるほおの涙拭いておくれ」というやつ。沢田研二の「カサブランカダンディ」はどっちだっけ。
分泌物が泉のごとく湧くというのであろうとしているし、最近の漢和字典類もおおむねその解釈であるが、『大字典』(T6)では「肉+線」としている。近年出た新訂版でもそうだ。「すじ」という訓もついている。
医学の世界では、当用漢字が定められるよりも前に難しい漢字を使うまいと用語改訂を行った、ということが書いてある。たとえば「薦骨」を「仙骨」に改めた、しかし、当用漢字には逆に「薦」があり「仙」が無かった、など。なお、常用漢字では「仙」もはいっている。
もうひとつ面白かったのは著者が「かがと」と書いていることである。「かかと」のことを「かがと」という地方は西日本などに広くあるが、著者の出身地は大分県とのことで、大分は「アド」(「あくと」と同源)が多い地域である。しかし「かがと」も点々とあって小川氏の言葉が「かがと」なのかもしれぬが、小川氏が「かがと」を〈他所行きの言葉〉と捉えてしまった可能性もあり、だとするととても面白い。
ともかく死後50年で著作権が切れるわけであるが、『著作権台帳』(文化人名録)などを見ると、命日ではなく、没後50年の年は最初から著作権が無くなったように書いてあるがなんでだろう。
WELCOME TO THE SHINKANSENおやおや、「OUR SHINKANSEN」じゃなかったのか。これは桂枝雀師匠が確か『枝雀寄席』で誰かと対談しているときに話題にしていたものだった。このOURはおかしいのではないかと。
英語の事は私には分らない。枝雀師匠は、英語の人々に対して〈われら日本の新幹線〉という言い方をするのはおかしい、と言っているように聞えたので、私としては〈われらJRの新幹線〉という意識なのだろうからおかしくないのじゃないか、と思ってしまった。JRが改めたということはやはりOURではおかしいということだったのだろうか。どういうふうにおかしいのだろうか。
『枝雀寄席』の対談は本になっている。この話も入っていたっけな。
田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りけるの歌が浮かんだのである。
/:write failed, file system is fullと出る。
/tmp:No space left on device
一昨夜のことをきのふのばんといふ。全の誤也。と言っている。
このあと、owaという音の入った言葉が最近多い、という話を書こうと思っていた。ポア、十和子さん、小和田さん(というのはちと古いか)、車のゴアにノア、ホワホワ花子さん……。
そして、owaと近いのはawaだけではなく、owoなどとも近いということも書こうと思っていたのだが、とても眠いので後日。
五十嵐、五十代の「十」を「カ」と読むのはなぜだろうかと考え、人にもたずねてみたりしたが、今のところはっきり答えてくれた人はいない。とある。
文学を攷察して見まするにこれを大別してローマンチシズム、ナチュラリズムの二種類とすることが出来る、前者は適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きましたが、井上氏はこの記事を見つけて喜んでいる。私もびっくりした。というのは、『漢語外来詞詞典』(上海辞書出版社1984.12)で、この「浪漫」を日本語起源ではなく西洋起源としていたのがずっと気になっていたからである。この『漢語外来詞詞典』は、日本人が宛てた西洋語の漢字表記は日本起源として記す方針のようで、「瓦斯」などは日本語起源としているのである。
ことばの習得ためにあるものが、ことばをいい加減に扱っているのを見るとがっかりしてしまうのである。
先日も、一念発起してタッチタイピングの練習ソフトを買ったのだが、「ん」を必ずnnで打たなければエラーに成るようになっていたので、やる気を失ってしまった。IMEの多くはローマ字のカスタマイズが出来るようになっているのにこれではだめだ。
きょう、ちょっと都合が悪なったんやって(p175)という具合である。
どこへ置いたんにゃ?(p9)という具合。ただ、「んや」と表記される場合もある。
何を教えるんにゃろな?(p43)
p260に出てくる、「福井大学の英文学教授」の「近藤豊先生」は、斎藤静氏であろうか。「明解英語辞典」は『双解英和辞典』と考えられる。我々日本語をやっている人間には『日本語に及ぼしたオランダ語の影響』で記憶しているのであるが。大修館の『英語学辞典』の人物の所に載ってるかな。他の記述が合うか調べてみよう。
ともかく方言は沢山で書き切れない。それから方言ではないのだが、
そう考えるのが、シロウトのあさましさじゃげや……なんていうのもありました、唐突ですが。
「ん」の後に「や」が来た場合、「んにゃ」になると書いてしまったのだが不正確であった。
俺、二百円損せんならんねや(p102)と「ねや」の形で表われている。「ねや」は関西でも聞かれるが、「のや」が「ねや」に変るについては、「や」のyが影響して「の」を「ね」に変化させているのであろう。
指定箇所には「フリガナ」をローマ字で記入して下さい。とある。面白いではないか。