目についたことば

目についたことば、耳に触れたことばから連想するさまざまなことを書いています。
岡島昭浩

97.4.1
【万愚節】
 今日は「エイプリルフールの日」だった、というと「建国記念日」のように落ちつかぬ言い方だが、これを「万愚節」というらしい。
 『日本国語大辞典』の「万愚節」の項には、「英 April fool の訳語」とあるが、これは間違いだ。本当に英語から入ったのかは知らないが(もとはフランスだともいうが)、英語からだとしたら All fool's day の訳であろう。大正ごろの外来語辞典にはオールフールズデーと書いてあった。しかし「〜節」ってのも大袈裟だな。

 「万愚節」は季語になっているようなので、歳時記などを引けば用例がみつかるだろうが、一体どんな句が、と思ってしまう。『日本国語大辞典』には、中村草田男の

銅像の片手の巻物万愚節
というのが載っているがどういう意味だろう。昭和三十一年の『母郷行』という句集に入っているらしいのだが。

 そういえば福井市ではつい最近まで、小学校の入学式が4/1に行われていたらしい。どこでも4/7ごろが入学式なのだろうと思っていたのだが、そうでもなかったわけだ。多分この、片手に巻物を持った銅像は学校にあるのではないか。違うかな。


97.4.2
【音読(朗読)・黙読】
 私は、玉上琢弥「物語音読論序説」(『国語国文』s25-12)も読んでいない不勉強な者だが、前田愛『近代読者の成立』の同時代ライブラリー版ぐらいは持っていて、その中の「音読から黙読へ」を眺めてみた。何故かと云うと、日下部重太郎『朗読法精説』(中文館書店 s7.10.25)を見ていたら、江村北海の『授業編』が引用してあって、
書を読むに、声をあげて読むがよきや、黙して読むがよろしきやと問ふ人あり。これは各々得失ありて一方に定めてはいひ難し
とあったからだ。黙読が音読と張合っているではないか。
 『授業編』は関心を持っている書物で、一部を電子化したりもしているのだが、以前の私もこの部分に引かれたようで、第二章からはこの部分だけを入力していた。『江戸時代支那学入門書解題集成』の第三集(汲古書院1975.9)でみると、これは「読書第三則」の冒頭にあった。また、「読書第一則」には、
声を発して誦するを読書と云。声を発せずして読むを看書と云。少しの違はあれども。すべてこれを読書と云。
ともあった。
 『日本国語大辞典』で「朗読」を引くと、既に唐の李商隠に「朗読する暇がないので黙って視る」というのが載っていた。

 漢文を黙読するのであれば、日本文を黙読することもあったのではないかと思えるのですが、江戸時代以前のそういうことを示す例はありますでしょうか。
 また、日下部重太郎氏は大変面白い本をいくつか出しています。JIS漢字の選定の際にも参考にされたと聞きました。ただ伝記的な事が全く解りません。ご存じの方はお教え願えれば幸いです。《『国語学大辞典』『現代国語思潮』の項に1876-1938と。『国語と国文学』にある。》

【万愚節・補】
 「節とはおおげさ」と書いたが、「万聖節」というのに対応しているのだそうだから、おおげさでよいようだ。


97.4.3
【つぶやき】
 昨日触れた、前田愛『近代読者の成立』では、〈深夜放送のアナウンサーがつぶやくようにしゃべる〉ことについて触れている(「あとがき」でも)。ラジオが家庭のものから個人のものになったということである。
 たしかにそんな雰囲気が有った。でも今でもそうした流儀を続けている人は居るのだろうか。

 私が「つぶやき」に接したのは、オールナイトニッポンの第二部、すなわち深夜三時以降の部においてである。第一部では比較的元気にあかるく喋るパーソナリティーが多かったように思うのだが、第二部に出てくるような、フォークソンググループの一人であるような男性は、「つぶやく」というかボソボソと消え入りそうな声で語るのであった。歌声はちゃんと出ているのだが、話し声はボソボソモソモソなのである。これを聞くと本当に眠くなるので、「歌うヘッドライト」に替えたものだった。そういえばラジオ局が一つしかない地方では、「オールナイトニッポン第一部→歌うヘッドライト(或は走れ歌謡曲)」という中継の仕方も多かったはずだ。ともかくダイヤルを替えるだけで、深夜から早朝に替わった気がした。KBCラジオを聞き続けた場合には「おはよう浪曲」にならぬと朝は来なかったのだ。
 しかし、その後このボソボソモソモソは影をひそめてしまったのではなかろうか。ネクラという言葉が流行り、明るいのがよしとされた。暗い歌を歌う中島みゆきやさだまさし、更には松山千春などが馬鹿に明るい口調で喋り、大笑いをする。しかも、聴取者に語りかけるというよりも、スタジオ内での会話(パーソナリティーが一人である場合にも、「スタッフ」なる人への語りかけ)がなされ、それをラジオの前で傍聴する、という感じに変化した。
 暗い人達はどうしてるのかな。NHKの「ラジオ深夜便」でも聞いているのだろうか。

 現在のラジオが個人のものである、というのはまさにそうで、私も結婚してからラジオを聞く機会が減った。しかし、車に乗るようになると又聞くようになった。でも朝夕の番組だけである。だから「ラジオ深夜便」は殆ど聞いた事がないのだ。

【最古級・補】
 NHKニュース7でも「最古級」と言っていた。考古学の世界では普通に言うのだろうか。日本語史の方でも使ってみるか。「これは最古級の用例です」と。


97.4.4-6
【顔肌】
 「手肌」ということばに就いて触れたとき、単に「はだ」と言った場合、顔の肌を指すようだ、と書いたのだが、なんと「顔肌」という例を見つけてしまった。
 赤瀬川隼『獅子たちの曳光―西鉄ライオンズ銘々伝―』(文春文庫1995.11.10)p192、青バットの大下弘を語る部分においてである。
鐵子夫人はもの静かに語る。七十一歳とは思えぬほど若く、顔肌の美しい婦人である。
 この本のp217、「根野菜」も、おや、と思うことばだ。「根菜」なら知っているのだが、これはなんだろう。「ねやさい」それとも「こんやさい」?

 福岡出身の私にとって、ライオンズはやはり特別な球団である。しかし西鉄ライオンズの最後の優勝の時に二歳だったわけで、小倉球場の近くに住み、応援するようになった小学五年生の時分にはもう黒い霧を経過していて、最弱球団になっていた。外国人選手はポインターとボレスを覚えている。キャッチャーは宮寺、ファーストが高木喬、セカンドはもう基ではなかったか、サードに竹之内がはいっていたか、ショートは菊川か梅田、外野には東田がいた。《小倉球場での開幕試合を見に行った。》
 太平洋クラブの初年が私の中学一年にあたる。この頃からラジオのナイター中継をよく聞いたものだ。太平洋クラブからクラウンライターの頃の選手はよく覚えている。高校三年の時の身売りで福岡を去り、埼玉へ行ってしまうと知ったときは物凄いショックであった。受験するのを関東の大学に変えようかと、半分真面目に考えたものであった。しかし、福岡の応援団が西武球団に福岡平和台球場での惜別試合を開いてくれと頼んだのに対して、拒絶した上でもう応援しなくて良いと言った、という話を聞き、私はアンチ西武になったのでありました。真弓・若菜・竹之内・基といった人々がライオンズから去ったのも好都合でした。

 で、私はホークスが福岡にくるのと入れ替わりに関西へ移ったのです。……ということはホークスが福岡に行ってもう8年も経つのね。全然強くならない。


97.4.7
【恥垢】
 昨日はPerfecTV!JIC地球の声(278ch)で、「筒井康隆の21600秒」という番組が放送されたはずである。私は現在パーフェクTVを受信できる環境にはないが、この番組の為の公開録画を東京まで聞きにでかけた。そこで朗読されたのは「エンガッツィオ指令塔」という作品なのだが、この作品の朗読は、既に断筆中の秘密朗読会で聞いたものであったから、それを東京へわざわざ行くとは我ながら好きである。ともかく放送されたようなので、公開されたと考えて言及することにする。
 この作品は題名から伺えるように結構スカトロなのだが、作品中、チクと発音されたものは「恥垢」のことであろうと思われる。私自身はこれをチコウと読むし、「恥垢撚れ・近う寄れ」というような駄洒落を聞いたこともあるので、チコウと読む人が多いのではないか、と思いながら辞書を引くとこれが載っていない。チクでも載っていない。「無垢」というのがあるから、呉音のクで読むこともあるのだろうが、世代差とかあるのだろうか。「歯垢」なんてことばも新しそうだが、これは『日本国語大辞典』にも載っている。
 そういえば、「願望」もガンモーと呉音で読まれていた。これは「乖離」にもあったと思う。

97.4.8-9
【拗音「やゆよ」促音「つ」の小がきの仕方・その後】
 先日書いた、拗音・促音の書きかただが、小学一年生の国語の教科書(光村)でも、右上四分の一に書くように示している。
 文部省國語問題研究会『國語の新しい書きかた』(学徒援護会1947.5.20)を見ると、その「新かなづかいの書きかたについての諸注意」に(p54)、
原則として小がきにする。それで、入門にはそう教えておいて、次第に同じ大きさの字で書いてあっても正しくよみ得るように導いてゆくべきである。
とある。この考え方で行くと、右上四分の一に書くやり方も、「入門にはそう教えておいて」ということなのかもしれない。尚要調査。 《その後
97.4.10-11
【岡井慎吾】
 私が関心を持っている学者の一人に岡井慎吾がいる。『日本漢字学史』というのを書いた人で、熊本にも居た人である。ところが(というのも変だが)、出身は福井であり、なんだか私と逆のような人ではある。
 図書館の中をうろついている時に、郷土の人物とかいうような本を開いてみたところ、橋本進吉や芳賀矢一にまじって岡井慎吾も載っていた。福井師範の卒業(M26)であったのだ。福井大学教育学部の前身だ。また、ここを卒業した後、福井県内の朝日小学校に赴任し、そこの校歌も作っているという。どんな歌詞を作っているのか見たくなり、「朝日小学校〜年史」みたいな本はないかと捜したのだが見当らない。県立図書館の郷土資料室にでも行かなければ仕方ないかな、と諦めたのだが、その後、地方志のあたりを見ていたら、『朝日村誌』というのがあり、それに朝日小学校の校歌も載っていた。
朝日小学校校歌 岡井慎吾作歌(吉田恒三作曲)
一 昇る朝日と名におへる
  学の庭にうち集ひ
  つむやかたみに教へ草
  のぼる朝日のたゆみなく。

二 のぼる朝日と名におへる
  学の庭をふみならし
  おふす心の杉はしも
  のぼる朝日のいや高く。
(『朝日村誌』大正9.10.15)p17

「おふす」は「おほす」とあるのが普通だろうと思う。《でも「あめつち」には合う。》

 「作詩」ではなく、勿論「作詞」でもなく、「作歌」であるのも面白かった。


97.4.12-14
【立派な犯罪・無益な戦争】
 子供を連れて、京阪へ一泊の旅行をした。大阪で見かけた大阪府警のポスターに、
援助交際は売春です。
というのがあった。非常に直截的な言い方でどっきりさせるものだが、ふと、
政治献金は賄賂です。
という言葉が思い浮かび、ついで、店などに貼ってある、
万引は立派な犯罪です。
というのを思い出した。
 この「立派な」というのは、
立派な行為です。
というような、〈賞賛に値する〉とは違って、〈十分にそうだと言える〉といった意味なわけだが、やや誤解を招く、というか、屁理窟を受け付ける言い方だ。かといって適当な言い方は難しい。「ちゃんとした犯罪です」でも駄目だし、「堂々たる犯罪です」というのも変だ。「十分に犯罪です」はまあよさそうだが、「十分な犯罪です」ではおかしい。「れっきとした」ぐらいかな。

 そうそう、「嘘つきは泥棒の始まり」ってのも、「嘘をついていたらそこから始まっていつか泥棒になってしまうんだよ」という意味だと思っていたのだが、「兄弟は他人の始まり」という言い方もあるように、〈嘘つきは、もう泥棒の仲間に入ってしまっているのだよ〉という意味だ、という解釈がある。

 それからもう一つ思い出すのは、

無益な戦争はやめましょう
というのに対して、「じゃ、有益な戦争ならいいのか」というような理窟をいう人がいることだ。こういう屁理窟を封じるような表現は可能であろうか。
戦争てえものは、この、無益なものなんですな。そうした、この戦争てえものは、ひとつやめようじゃございませんか。
と長くなってしまうわけだが、こういう修飾の仕方といいますか、説明するような修飾の仕方と、よくあるような限定する修飾の仕方とを区別するような言語があるだろうか、あるとすればどういう風に言い分けているのだろうか、ということを知りたいと思ったりするわけだが、私は知らないんです、残念なことに。
「立派な犯罪」関連
97.4.15
【星のとんがり五つ】
 子供の教科書を眺めてみた。道徳だが、東京書籍『どうとく◆みんななかよく1』では、「なんべんもなんべんも おののとうふう」などという古典的なものも入っている。私が小野道風を知ったのは道徳の時間ではなかったと思う。私の記憶では、小学校時代の道徳はNHK教育テレビを見る時間でしかなかった。感想を言ったり書いたりした記憶もない。山田隆夫が出ていたのを見ていたわけだ。

 さて、娘の教科書だが、「うさぎのむねかざり」の「むねかざり」という語は初めて見たが、『日本国語大辞典』には載っている。

 「ちいさなたね」に(p32)、

おまちどうさま
と、現代仮名遣からはずれる例があった。国語ではなく道徳だからよいのだろうか、それともこれは「遠い」という語源の意識は失われているからこれでよいと見なすのであろうか。

 「ぼくのがっこうのこうしょう」の校長先生のお話で、

ほしは、ふつう 五つの とんがりが ありますが、こうしょうは それが 六つ あります。
と言っているが、こういう頭の固いところを見せたらいかんなあ、校長先生よ。他のページの挿絵には星のとんがりがいろんな書かれかたをしているというのに。虹が7色だってのよりも頭が固いんじゃないのかな。「ほしじるし」とか「ほしのしるし」と言えばまあよいのだが。JISでも☆★、「五つのとんがり」って決めてるわけではないのでしょうね。しかし五つで書く習慣と言うのはどこから来ているのだろう。ヒトデを「海星」と書くのは『倭漢三才図会』に出ているが、この本で星はまん丸に描かれている。そういえば、「月日の立つのは早いもんだ」と言ったあのお星さんはどんな形だったっけな。明日見てみよう。《見付けられない。たしか挿絵入のがあったと思ったのだが》

 思い出したのだが、校長先生用の講話見本集のようなものを古書店で見かける。ああいうものがあるということは、多分、推薦書模範文例集とか通知表評価文例集とか言うのもあるのではないかと思う。こちらの方が需要が多そうな気がするし……。でも古書店では見かけないような気がするが何故だろう《通知表用は新刊本の店で見た》。校長用はぱりっとした造本だから売りに出るけど、そうでないのはツブされてしまうのかな。

(道徳の教科書の文章には出典があるものもあるが省略)


97.4.16
【ぬる】
 昨日、通知表評価文、と書いたが、私の小学生時代の通知表を見ると結構厳しいことが書いてある。例えば一年生の時のもの。
 一学期 聞く態度や話す態度に節度がほしいと思います。
手洗いや準備がおそいために配盆がおそくなることがあります。
 二学期
学習時間にもっと元気がほしいと思います。特に体育は力一杯してもらいたいと思います。
仕事がおそいために、人の世話までできにくいようです。体が機敏に動きません。
のろいために完成しないまま終ることがあります。
 三学期
学習態度がやはりだらしないようです。度々注意しますが、なかなかなおりません。そのため聞き落しがあり、失敗も何度かありました。
掃除中にぼんやりしていることがあります。
自分の机の中の整頓は余りできません。
 成績でも、国語の「よい聞き方」の所に×がつけてある。これが一年生の時のだが、何時のをみてもこんなことばかり書いてある。

 五年生の時の担任からはヌルと言われた。動作が緩慢であるからだ。ノロい、というよりもヌルいというのだ。私にとっての最暗黒時代であるこの五年生の時の通信簿は残っていないが、転校する私に対してクラスの人々が書き殴ったノートが残されている。私はこの時の転校はものすごく嬉しかった。終業式の日に転校する人々が教室の前に立っているのをとても羨ましい思いで見ていたのだが、「家から連絡があってお父さんが転勤だ」と言われた。ノートはそんな状況で書かれたものだ。それには、

むこうのがっこうにいってヌルがなおるといいね。
とか、
ヌルの競争相手がいなくなってざんねんです
とか、
のろま中ののろまなので注意するべし
とか、
きびんに動いて先生にすかれてね
とか書いてある。全く好きなことを書くものだ。
 時は流れ、私の娘が一年生。これが本当にいろんなところが私に似ているのだ。ぼんやりしている、動作が遅い、人の話をちゃんと聞けない。それで、私は娘のことをネオ・ヌルと呼んでおります。
【ぬる】読みました。
97.4.17-21
【説明書の文章】
 ある日、酒を飲み、歌を歌い、翌日起きたら、少し頭が重い。でも頭の重さよりも胸のムカムカの方が強い。寝ていたい気分だが、こう言う時は動き回った方がよいのでは、と散歩に出る。薬屋が目に入ったので、ちょっとした二日酔の薬でももらおうかと立寄る。私としてはソルマックの様なものを想定していたし、いくつか示してくれたものから選べばよいと思ったのだが、「二日酔いの薬を」というと差し出されたのは、ソルマックとグロンサンが一本ずつと錠剤が入っていた。「錠剤は余っても、また飲めば悪酔いしません」と言われ、ことわる元気も無くそれを買ってしまった。店を出てソルマックを飲むと、なかなか気持ちが良い。「口中さわやかに……」などと、外郎売を思い出したりする。しばらく歩いて、帰り際にグロンサンでその錠剤を流し込んだ。
 一端家に戻り、子供を連れて外にでた頃から、具合が悪くなってくる。帰宅し、とうとう寝てしまう。気分が悪い。夜になってから起きて、さきほどの錠剤が何の薬かと見てみる。肝機能を高め二日酔いを回復させるのだと言うが、説明書がひどい。  
 肝臓は体内での各種代謝の中心的役割を行う重要な臓器のため、……能力が強いため……症状があらわれません。
 したがって常に肝機能検査が必要と考えられるわけでサピン錠は下記効能にすぐれた効果をあらわします。
 これを読んでますます頭が痛くなった。日新製薬、しっかりしろ。こうした薬を監督する厚生省にも責任の一端はあるであろう、ってことはないか。でも売薬の説明書はきちんとしてほしいものだ。しかし頭痛薬は殆ど効力を発揮しない私の体だが、この薬にはえらく反応してしまったようだ。
 喉が痛かったのも、歌のせいだと思っていたら、どうやら風邪らしい。どうもここ数日すっきりしない。
97.4.22-26
 子供の小学校入学以来、どうも生活のリズムがつかめない。子供の起床が幼稚園の時よりも一時間半ほど早まり、子供を早く寝せるために、九時ごろ電気を消す。狭い公務員宿舎なのですべての部屋の消すのである。私も寝てしまいそうになる。あとで起き出すのだが、どうもうまく時間がとれないのである。 【バッシュ】
 バスケットシューズのことを「バッシュ」と呼ぶらしい。私がかつて聞いたのは「バシュー」という呼びかたであったのだが、『新潮現代童話館2』の川島誠「セカンド・ショット」には「バッシュ」と書いてあった。
 「バッシュ」というのはおそらく「*バスシュ」というのが発音しにくいことによって行われているのであろう。発音しにくい、と感じるのは母音の無声化が起りやすい地方に於いてのことである。
 スは無声子音に狭い母音が後続していて、さらに後に来ているのがシュの子音で、これは無声音なので、スの母音は無声化する。
 【オッシさま】で触れたのだが、サ行音が無声化して、次のサ行音に連続した場合、促音と似ている。サ行音が無声化すると、母音部分がサ行子音と同じ様な音になる(サ行子音のままで一拍分保持される)からである。「オッシサマ」の場合には、サ行子音でも同じ種類に属するもの(ヘボン式ローマ字で「sh」で書かれるもの)なので、素直に促音と化すのだが、「*バスシュ」の場合には、「s」と「sh」なのでそのままは促音とならないわけだが、「sh」によって「s」が同化され(後の音が前の音を同化するから「逆行同化」)、「バッシュ」となるのだ。
 めでたし・めでたし。
オソッサマ
97.4.27-30
【ミズギョーザ】
 先日の旅行の時に中華料理を食べたのだが、レシートを見てみると、
ミス゛キ゛ヨーサ゛
とかいてある。スイギョーザを食べた積りであったのに。
 「水」は熱くても冷たくても、液体であればよいわけだ、水筒とか。さらに「水蒸気」になるとこれは気体だが、ここまで来ると日常のことばではないように思う。
 「水風呂」はミズブロと読めば、沸かしていない風呂だが、スイフロというと、これは「据え風呂」から来ているのかもしれないのだが、蒸し風呂に対して、お湯が入っている風呂のことだ。
 ともかく、お湯であっためた餃子はスイギョーザでないと落ちつかぬ。

 にも書いたが、西安の小吃(屋台の様なの)で食べる酸湯水餃は本当に美味しかった。ガイドブックなどにも載っている解放路餃子館などで食べるのよりもずっと美味しいのだ。帰国後、日本の餃子の不味さには閉口したものだ。餃子の中身に余計な味を付けすぎなのだ。


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