目についたことば

目についたことば、耳に触れたことばから連想するさまざまなことを書いています。
岡島昭浩


97.3.3

97.3.4

97.3.5

97.3.6-7
昨夜はボッとしてしまいました。
  • 【金をくずす・こまめる】
     赤川次郎・横田順彌『二人だけの協奏曲』(講談社文庫1987.10.15)にある、赤川次郎「お札くずし」。この小説では、大きな金を両替して、小さな金にすることを「くずす」と言い、さらに、「細かくする」という言い方も出てくる。『日本方言大辞典』で見てみると、「くだく」「ぶちごす(ぶずぐす・ぼかす・ぼっかす)」が載っている。さらに『日本国語大辞典』では「こわす」もその意味で使っていることが確認できる。「小さくする」とも言うように思う。
     しかし、私の使っている「こまめる」は載っていない。これは「こまかくする」の意味で、形容詞「こまい」に対応する動詞である。「ほそい」に対する「ほそめる」「ひろい:ひろめる」「ふかい:ふかめる」と同様の関係である。ただし、私自身の語感ではこの「こまめる」はお金をこまかくする時にしか使わず、他の物では小さくする場合には使わないと思う。
     ともかくこの「こまめる」、辞書にはみえないし、熊本出身の妻は使ってないし《「きる」》、長谷川法世『博多っ子事情』(集英社文庫1995.9.25)の「博多弁辞典」にも載っていないし、個人言語なのではないかと不安なのである。使うよ、聞いたことあるよ、というかたは是非ご連絡を。
    97.3.9

    97.3.10

    97.3.11

    97.3.12

    97.3.13-17

    97.3.18
    【て・で】
     形式を改めることにした。1日に何項目も書くことはなくなってきたので、リスト形式は辞めようと言うことだ。

     『古書通信』を眺めていたら、『奥の細道』の自筆影印に就いて触れてあり、

    田一枚植えて立去る柳かな
    の句に就いて、
    「植えて」の「て」に濁点が付されており(汚れではなく明かに濁点だ、と)、これで「植えで」、つまり「植えないで」の意味であることが明かになった。しかるに影印本の翻字では「植えて」としてある。
    というようなことが書いてあった。本当かいなと思って影印本を見てみると、私の目にはやはりこれは汚れか、紙を張り付けてある下の文字が透けて見えているか、という感じである。実際ここは紙を張り付けてある箇所である。
     「連用形+て」「未然形+で」が、上下一二段動詞では、濁点を打っていないと見分けがつかないことに拠る、解釈の揺れはあるわけだが、わざとのものもある。
    わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月を見
    、と言ったのは塙保己一とも言うが、それは〈学のある盲人と言えば塙検校〉という思い込みに拠る仮託であろう。為永春水『閑窓瑣談』(日本随筆大成(旧)1-6のp550)によれば、宝永の板鼻検校であるという。前田勇『國語随想/俳諧腰辨當』(錦城出版社1943.2.28)によれば、板津検校であるともいうそうである。

     次は、前田氏も引いているし、『和訓栞』の大綱にも引いてあった笑い話。

    庭の雪に我が跡つけて出でつるをとはれにけりと人やみるらむ
    これを、
    庭の雪に我が跡つけ出でつるをとれにけりと人やみるらむ
    とすると、「訪はれにけり」が「飛ばれにけり」となって大層面白い。

     前田氏の著書から、もう一つ挙げると、漱石の『草枕』で、

    馬子唄や白髪も染め暮るゝ春
    の「で」は濁点のある本とない本があるという。

    後の記
    大町桂月・佐伯常麿『誤用便覧』明治44年。「いさ、いざ」の項に

    古歌の
        わが心慰めかねつ更科や姨捨山にてる月を見て
    「て」を塙保己一が、
        わが心慰めかねつ更科や姨捨山にてる月を見で
    と「で」に濁って全然反対の意味とし、以てわが心を咏じたといふことは有名な話で、人の知るところである。

     明日の送別会は深酒をしないようにしたいものです。

    97.3.19-20
     昨日の送別会は深酒はしなかったのだが、なんだか寒くて日本酒を飲んでしまった。それでどうもいけなかったようだ。
    【新聞から】
     「服役囚一部釈放」という見出しに、「服部四郎? いや、服部四一郎?」と思ってしまった私。服部四郎氏は言語学者。《小田実『受験指南』(講談社文庫)にも登場する》

     「固化体」。動燃の事故で、「アスファルト固化体」とも書いてあるが、単に「固化体」とも書いてある。変な名称だ。〈固体化した(液)体〉なのだろうか。《「固化施設」という》

     「球春」。『三国』では二版から。

     「牛刀」。諺でしか使わないことばと思っていたら、《オウムの》村井幹部を刺したのは「牛刀」であるという。これも『三国』によれば、肉切庖丁のことをこう呼ぶらしい。


    97.3.21
    【アンダーグラウンド】
     妻が読み終った村上春樹『アンダーグラウンド』を私も読んだ。村上春樹でなくても書ける、とかいう意見もあるようだが、村上春樹が書いたものでなければ我が家では購入しないであったろう本であることは確かだ。
     「被害者の姿をまんべんなく伝えたい」という姿勢は、証言の活字化の姿勢にも現われていて、普通のインタビュー本であればカットされるのではないかと思われることばもそのまま載せているように思われる。
     p332の「ベッドがだあーっと並んでいる」という「だあーっと」は、私もつかうと思うが、辞書類には載っていないと思う。p404の「かーっと晴れ上がる」、p406「こほこほと咳をする」、p408「体の力がふっふっと抜けてきた」。
     俗語としては、p376「(車で)かっとばす」、p379「メントリ」(免許取消)、p380「けつをあおる」。「かっとばす」で私が使うのは、打って飛ばすのだけだが、ここでは「ぶっとばす」の意味で使っている。
     あと、「(休み|連休|休日)の谷間」という言い方の他に、「連休の中日」という言い方がでてきた(p421と、確かもう一ヶ所)。ナカビなのだろうか。丁度翌21日が彼岸の中日(チューニチ)だがそれは関係なく、相撲などの中日(ナカビ)からだろうか。不思議と「飛び石連休」という言い方は出てこなかった。
    97.3.22-23
    【たいこめ】
     国語学関係の論文や書籍について前年に出された分を記した『国語年鑑』というのがあるのだが、その最新の1996年版(1995年発行のものが載っている)を見ていて驚いた。山本コウタロー等編の『たいこめ辞典 複刻版』というのが載せてあるのだ。
     なぜこんなものが、と思う。今から20年ほど前に、TBSラジオ系の深夜放送であったパックインミュージックで、金曜深夜(土曜未明)は山本コウタローの担当であった。その中の「たいこめコーナー」というのを元にして出来たのが、この『たいこめ辞典』であった。「たいこめコーナー」というのは、
    鯛釣(たいつ)り船(ぶね)に米(こめ)を洗(あら)う
    というのを逆から読むと、深夜放送向けのネタになる、という投書を元に始まったものであった。「回文」は〈上から読んでも下から読んでも〉というものだが、これは〈下から読むと……〉という趣向であった。

     私はこの放送を福岡のRKBラジオで聞いていた。当時はニッポン放送系のオールナイトニッポンが盛んな頃で、福岡でもKBCラジオで流されていて、友人たちもこれを聞く人が多かったようなのだが、私はこのパックインミュージックを聞いていた。全国的に見てもネットしている局は少なかったと記憶している。ラジオ局が一つしかない地方ではまずオールナイトニッポンを中継しているし、大阪・名古屋といったところでは自主制作番組をやっている(そういえばRKBも自主制作の深夜放送をやっていた時期があった)。
     そんな具合で、オールナイトニッポンに比べれば聴取者は少なかったであろうパックインミュージックも、書物はいくつか出していたように思う。山本コウタローの番組にしても、「恥の上塗り」というのも本になったと思うし、木曜夜の野沢那智・白石冬美は何冊も「もう一つ別の広場」というシリーズを出している。小島一慶・林美雄はどうだったか。

     私はこの頃、「投稿マニア」とまでは行かないが、結構好きだった。『ビックリハウス』では、「教訓カレンダー」には採用されずじまいだったけど「ビックラゲーション」には一度だけ載った。『高二コース』では何度か採用され、原稿依頼が来たこともあったのだが、これは怖気付いて書けなかった。オールナイトニッポンも確か第二部(3:00-)で採用された記憶がある。
     そしてこの「たいこめコーナー」は私の好きな〈ことば遊び〉である。これに投稿しない手はない。でも投稿したのは一度だけだったと思う。ボツになったと思っていた。ところがこの『たいこめ辞典』を書店で見てぱらぱら見ていると、私の作品が載っていたのだ。ただしペンネームである。どういうペンネームであるのかは忘れた。

    ミカ思いのことをしたわ
    というものであった。著作権は投稿した時点であっちに譲り渡していて、すでに私のものではないのだが(だからこそ「掲載します」の連絡もないわけだ)、引用と言うことでよいだろう。

     その時は買わずにいたのだが、ここ数年、欲しい気持ちがあった。古本屋で出ないだろうかと思っていた。でもこの手のものはなかなか出ないようだ。鶴光とかあのねのねだってたまにしか見かけないのだ。何故欲しいのかというと、こういう言語遊戯関係のものをぼつぼつと集めているからだ。そしてこの「たいこめ」は、回文とは違うようだが、やはり回文に通じるものがあるのだ。例えば先程のものにしても、

    ミカ思いのことをした私、男の芋を噛み
    とすれば回文になるし、「鯛釣り〜」にしてもそうすることは可能だ。
     そういえばこの「うら」、聞いていた当時は、「おら」を訛らせたものだと思っていたのだが、〈私〉のことを「うら」という地方はいくつもあるのであった。そして福井もその一つだった。

     でも、1200円だ。古本で200円ぐらいなら躊躇せずに買うのだが、わざわざ注文して1200円のを買うかな。うーむ。でも、なぜ覆刻なんてしたのかが買うと分るかもしれないし。《後日


    97.3.24-25
    【拗音促音の小さな字】
     子供が小学校に入学するにあたって、市販のものを見ていてびっくりしてしまった。「やゆよっ」などの仮名を小さく書くのに、マスを上下左右の四つに分けてその右上の四分の一に書け、とあるのだ。

     昭和61年の「現代仮名遣い」には、

    拗音に用いる「や,ゆ,よ」は,なるべく小書きにする。
    とあるだけだし、昭和21年の「現代かなづかい」には、 第九 拗音をあらわすには[や]、[ゆ]、[よ]を用い、なるべく右下に小さく書く。
    第十 促音をあらわすには[つ]を用い、なるべく右下に小さく書く。
    とある。これは、横書きのことを言っているのだろうか。《縦書きの場合は〈上の字の右下〉と解されるか》

     もしかすると、学校での指導のための何かにこういったことが書いてあるのだろうか。右上四分の一というのは不格好な感じがするが。
     不格好と言えば、拗音促音を現わすのに、ワープロなどでポイントを落したり、半角にしたりしてやっている人が居たものだが、そういう人はちゃんと減っているだろうか。ワープロソフトが警告を出したりするだろうか。
    後日


    97.3.26
    【赤血球・白血球】
     セッケッキュウ・ハッケッキュウ、と促音が二つ続く。そのこと自体は珍しくない。「のっかって」「つっぱって」などの動詞のテ型、「ピッポッパ」「ラッタッタ」「アッパッパ」などの擬声語擬態語などがそうだ。

     でも、辞書に載る形で、この様に促音が二つ続くのは珍しいと言ってよかろう。小さい辞書ではこの二語だけ、ということもあるのだが、『広辞苑』の三版で捜しても、この二つの他には、「褐鉄鉱カッテッコウ」「直滑降チョッカッコウ」だけのようだ。外来語を入れても、ウィッケット、サッケッティ、ボッカッチオぐらいのようだ。外来語の促音挿入にもいろいろ問題があるのだが、此處ではおく。
     辞書に載らない形で考えてみると、「六角形」「八角形」がそうだし、辞書には「ホッキョケン」で載るだろう「北極圏」もそうだ。

     考えてみると、「北極圏」はホッキョクケンと言い得るのだが(「[六八]角形」も)、「赤血球・白血球」は「セキケッキュウ・ハクケッキュウ」とは言いづらい。「直滑降」の「チョクカッコウ」も、どこか、ぎ[ごこ]ちない。「褐鉄鉱」は少し性格が違うが、カツテッコウとは言いそうにない(「褐色」は「カツ」ではなく「カッ」でなければ落ちつかぬからということもあろうが)。

     「赤血球・白血球・褐鉄鉱・直滑降」、この三文字熟語、意味から考えるといずれも1+2で、「北極圏・六角形」が2+1であるのと対照的である。セキケッキュウなどとならないのはこういうところに原因が有るように思う。

     ついでに言えば、カ行の前の「キ」が促音化するのは(「的確」のテッカクなど)、「ク」が促音化するの(「学校」のガッコウなど)に比べると辞書に載りにくいのに、セッケッキュウが載っている、というのもセキケッキュウの言いにくさ(「言わなさ」(?))を証明している。


    97.3.27
    【筆順】
     娘の小学校入学を睨んで教育産業の置いて行ったビデオでは、「筆順もちゃんと覚えないといけません」と言っている。未だに金科玉条としてやっているのかな、と思うのだが、そういえば漢字検定は文部省認定をうたいつつ、筆順を出題しているから、筆順の試験はますます盛んなのであろう。でも、多分筆順の試験問題を作る人は文部省『筆順指導の手びき』(昭和33.3)など見たことがないだろう。あるいは、見たことがある積りでもその一部しか見ていないのだろう。

     「1.本書のねらい」というところに次の様にある。

    もちろん,本書に示される筆順は,学習指導上に混乱を来たさないようにとの配慮から定められたものであって,このことは,ここに取りあげなかった筆順についても,これを誤りとするものでもなく,また否定しようとするものでもない。
     実は、この「本書のねらい」のところを削る形でこの「手びき」を掲載している本があるのだ。国語科教育法資料集とかいった本でそういうのがあった。しかしまあこんなのはましな方で、多くは教育漢字の筆順一覧を載せて終り、というのが多い。

     では筆順はどう書いても言いのか、という点に関しては、学習指導要領・国語にも、「筆順にしたがって」とあり、又「手びき」の「5.本書使用上の留意点」には、

    1.本書に取りあげた筆順は,学習指導上の観点から,一つの文字については一つの形に統一されているが,このことは本書に掲げられた以外の筆順で,従来行われてきたものを誤りとするものではない。
    となっているので、なんでもよい、というわけではないと考えているようである。しかし、「従来行われてきた」筆順がどのようなものであるのかが列挙されている訳ではなくその点は不安である。手びきの中で「広く用いられる筆順が,2つ以上あるもの」として示されているのは、「上点店・耳へん・必・癶・感盛・馬・無・興」といったところである。他の字は2つ以上ないのか?
     例のビデオでも取り上げていた「左右」の筆順だが、この「手びき」では字源主義(象形文字に遡るもの)ではなく、
    横画が長く、左払いが短かい字では、左払いをさきに書く。(右有布希)
    横画が短かく、左払いが長い字では、横画をさきに書く。(左在存抜)
    としている。でも「当用漢字字体表」や「常用漢字表」で、「左右」の長さは違っているのかな。原本は見ていないのだが、一般に見られるものでは違わないように見えるのだが。「手びき」では、「本書は字体の手びきではない」と言っているし。「右有……」の筆順にも二種あると言って宜いように思う。

     しかし、「手びき」は当用漢字によっているわけだから、〈常用漢字に沿って〉という名目でよいから、一度〈筆順金科玉条〉の隆盛に反省を促すべく、「筆順指導の手びき」を見直して欲しいもんだ。でも下手に見直すと、また「新筆順!」とか銘打って儲けようとする出版社が居るんだろうと思って悲しくなる。


    97.3.28-30
    【最古級・最も〜ものの一つ】
     3/29の毎日新聞に「最古級の土器」という表現があった。「最高級」という言葉があるのだから「最古級」があってもいいようにも思えるが、「最高級」は「最+高級」である。「高級」という言い方はあるのに「古級」という言い方がないので、「最高級」はよくとも「最古級」が変だと感じるわけである。

     新聞がこの表現で言いたいことはわかる。〈「最古」ではないかもしれないけれどそのクラスだ〉ということであろう。これまでに「最古」と報じたことによっていろいろとクレームが来たりしたのだろうか。

     それはともかく、「最古級」という言い方は「最も古いものの一つ」という言い方を連想させる。「最も〜なものの一つ」という言い方は気になる言い方として言及されることが屡々あるように思うが、今手元には資料はない。「最も」が〈いちばん〉の意味であるなら「〜の一つ」はおかしかろうというわけである。これは、英語の one of the most 〜 の翻訳なのではないかとか、いやいや「最も」が〈いちばん〉の意味であると思うのが行けないのだ、「尤も」という字もあるとかいう。

     この辺を確定するためには用例を集めなくてはならないのだが、これがまた辞書を引いても出てくるわけではないから困る。私の知っている例としては谷崎潤一郎の『文章読本』にあった、ということを記しておこう。


    97.3.31
    【ドラえもん・神】
     子供を映画に連れて行ったのだが、しずかちゃんはのびた君のことを「のびたさん」と呼んでいるのに気付いた。古風なんだ(参照)
     しかしこの映画「ねじまき」という名であるので村上春樹みたいだ、と思っていたら羊博士みたいなのまで出てきてびっくりした。

     ダイマジンてのが出てきたから、「大魔神」かと思ったら「大魔人」と書いてあった。ひょっとして昔の映画の「大魔神」とは違うのだ、と逃げをうっているのかな。
     「神、シン:ジン」と「人、ジン:ニン」の区別は時として厄介で、神代と人代はジンダイ・ニンダイと読めばよいのだと思うが、人代はジンダイと読まれやすくそうすると神代と混乱する。
     そういえば「鬼神」という言葉をキシンとよめば良い神で、キジンと読めば悪い神である、と書いてある本があるそうだ。確か百科事典か何かにそうある、と何か辞書関係の随筆書に書いてあったと記憶する。これは〈濁音減価〉の現われであろう。《ことば会議室でのYeemarさんの報告を参照》

     「予告編」というのだろうか、映画が始まる前に見せられる宣伝映像で、幸福の科学が作った映画の一部が流れた。「東宝配給」と書いてあったのだが、映画業界に於ける「配給」ってなんなんだろう。

     ドラえもんで小便小僧が動いていたことを、娘(6)が「地球はおおさわぎ」みたいだね、と評した。ツツイストに育ちつつあるのだろう。



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